内田康夫 平家伝説殺人事件 目 次 プロローグ 第一章 安全犯罪 第二章 破綻《はたん》への序章 第三章 平家の里へ 第四章 高慢な蝶 第五章 愛と疑惑と 第六章 悲 劇 第七章 第三の男 エピローグ プロローグ  台風十五号は午後六時二〇分頃、潮岬《しおのみさき》付近に上陸、時速五〇キロという猛スピードで紀伊《きい》半島中央部を北上していた。中心付近の気圧は九三〇ミリバール、最大風速五〇メートルという超大型の勢力が衰える間もない、まさに疾風《しつぷう》の襲撃だった。  台風の進行速度五〇キロは秒速に換算すると一四メートルに相当する。したがって、台風の東側では計算上、瞬間的にもせよ、六〇メートルを超える強風が吹いたと考えられる。  紀伊半島東方海上はにわかに波立ち騒ぎ、やがて大きなうねりを形成して、北へ向かって動きだした。  伊勢湾《いせわん》は、気圧の低下とともに潮位が異常に上がっている。  そこへ狂瀾《きようらん》の怒濤《どとう》が押し寄せた。四〇メートルを越す南風が吹きまくり、湾内に碇泊《ていはく》中の船舶を直撃した。この日、台風を逃れて湾内にいた船は、数千トン以上のクラスだけでも十二隻。その内の八隻が錨鎖《アンカーチエーン》を切られるか、操舵《そうだ》不能に陥るかして漂流、座礁《ざしよう》した。小型船舶の惨状はおして知るべしである。  午後八時頃、知多湾衣浦《ちたわんきぬうら》港沖合に碇泊中の一千トン級の貨物船が高潮に押し流され、湾内深くまで突進、半田《はんだ》市の防潮堤に激突した。堤防は約一〇〇メートルにわたって崩壊し、三メートルを越える高波がもろに市内に殺到した。  同時刻、伊勢湾最奥部の長良《ながら》、木曾《きそ》、鍋田《なべた》河口付近でも混乱が始まっていた。河口域にある広大な貯木場がくり返し高波に洗われ、直径一メートルを越えるような原木を含む、膨大な量の材木が動きだした。波と風は一〇ノット以上のスピードで材木を走らせた。おびただしい数の材木が暗い水面を競い合うように陸地へ向かって疾走し、宙に跳ねあがり、防潮堤にぶつかっていった。  湿気をたっぷり含んだ暗黒の南風が、すさまじい速度で地上を掠《かす》め奔《はし》る。どこかで物の倒れる音がする。時折、礫《つぶて》のような雨が襲ってくる。  闇《やみ》の中から二つの影が蠢《うごめ》き出た。近くの家々の灯火から逃れるように、まっくらな建物の壁に躰《からだ》を密着させながら、ノロノロと移動する。 「タロちゃん、やっぱし、やるんか?」  問いかけた声には稚《おさな》いひびきがあった。 「決まってるがな」  答えた声も少年のものだ。 『タロちゃん』と呼ばれた方の少年の手が、入口を探り当てたところで、二つの影は動かなくなった。決断はしたものの、さすがに土壇場《どたんば》にきて、ためらいが生じた。少年はじっとしたまま、空腹感と闇の力が良心を麻痺《まひ》させ、恐怖を除いてくれるのを待った。  とつぜん、大粒の雨がはげしく吹きつけてきた。ごうごうと舞い上がる飛沫《しぶき》は、たちまち、少年たちの全身を濡《ぬ》らした。 「やるで!」  少年は棍棒《こんぼう》を小さく揮《ふる》ってガラスを割った。嵐《あらし》が音をかき消した。ガラスの破片を注意深く叩《たた》き落とし、腕をつっこんで鍵《かぎ》をまさぐった。思いのほかのあっけなさで、ドアは開いた。ずぶ濡れの二人は、風雨の一部のようになって建物へ侵入した。  懐中電灯を頼りに闇の中を進む。  机の抽出《ひきだ》しを片端から開けてみたが、いくばくかの小銭のほか、たいした収穫はなかった。結局、最初の計画どおり金庫を破るしかない。昼間、目を付けていたから金庫の所在は分かっているが、どうすれば金庫を破れるか、二人に知識はなかった。薄暗い懐中電灯の光の中に浮かびあがった金庫を前にして、二人の少年はしばらく考え込んだ。  木造二階建ての古い農協事務所は、狂奔《きようほん》する風雨の中で悲鳴のような軋《きし》みをあげ続けていた。ドアの破れ目から吹き込む雨が拡散して霧となり、はるか離れた位置にいる二人の頬《ほお》を濡らす。 「何か道具を捜そうや」 『タロちゃん』と呼ばれた方の少年が先に立って、建物の奥へ進んだ。そこは倉庫代わりに使われていて、さまざまな品物が雑然と積まれている。 「おい、缶詰があるで」  レーベルに鮭《さけ》の絵が描かれた缶詰が木箱いっぱいに入っていた。『タロちゃん』は缶詰を床に置いて棍棒で一撃した。鈍い音がして缶が潰《つぶ》れ、中身が周囲に散った。 「ノリちゃん、食えや」  少年は壊れた缶詰を相棒に渡し、またひとつ、缶を叩き潰した。 「うまいこと、取れんで」 『ノリちゃん』は缶の中身を取り出すのに苦労していた。「待ってれや」、『タロちゃん』は先刻、荒らした机の抽出しのひとつにナイフがあったことを思い出して取りに戻った。風雨はますますはげしさを増していく様子だ。窓の外を窺《うかが》って家々の灯がすべて消えていることに気付いた。 「停電らしいで、まっくらや」 「近づいとるんかな、台風……」 「分からん」  二人はしばらくのあいだ、ナイフを使って缶詰の中身を取り出し、口に運ぶ作業に没頭した。大阪の建築現場を逃げ出して十日目、きのうからロクなものを食べていない。缶詰の鮭は味もそっけもなく、いくら食っても胃にこたえなかったが、三つ目を食い終わったところで食欲を喪《うしな》った。 「タロちゃん、わし、帰りたい……」 「情けないこと言うなて、村にいてもどうもならんから出てきたんでないのか、明日は名古屋じゃ、働くとこ、なんぼでもあるで」  大阪の飯場には三日しかいなかった。仕事の辛《つら》いのは我慢できたが、中年の作業員にひとり変質者がいて、『ノリちゃん』に怪《け》しからぬ振舞いをしかけたのを、二人がかりで殴り倒して逃げた。三日分の給料を貰《もら》って辞めようと、いったん戻ったが、相手の男が倒れたまま、頭をかかえて唸《うな》っているのを見るとそれどころではなかった。大阪にはいられないと思った。奈良から伊賀上野《いがうえの》、四日市《よつかいち》と歩きづめに歩き、十日かけて、あと一日で名古屋、というところまでやってきた。道中はけっこう楽しかった。気候もよく、名所旧蹟の多い沿道は野宿する神社や寺にこと欠かなかった。金はとうに使い果たしていたが、農家でにぎり飯を貰ったり、畑の物を盗んだりして食いつないだ。しかし四日市あたりからは畑地が途絶えた。畑はあっても、直接食えるような作物にぶつからなかった。この村の入口の農家で事情を話したが、食べ物を恵んでくれるどころか、犬をけしかけて逐《お》われた。村を通過する途中、右手のかなたに、瓜畑《うりばたけ》らしいものがあるのをみつけ、国道を逸《そ》れた。食える物を求めてどんどん村の中へ入り込んでいった。犬をけしかけられたことで、どうでも畑を荒らさなければ腹の虫が収まらなくなっていた。その途中、農協事務所の前を通った時、女事務員が札束を数えている姿を目撃した。これが二少年の運命を、大きく変えることになったのだ。 「誰《だれ》かおるんか?」  ふいに、入口の方から叫ぶ声がして懐中電灯の光束《こうそく》が建物の中を駆けめぐった。二人の少年は壁に身を寄せ、息をひそめた。足下に消し忘れた懐中電灯を置いたままなのを、『タロちゃん』が拾おうとして、空き缶を蹴《け》った。 「誰だ!」  ゴム長靴の重い跫音《あしおと》が走り込んできた。  電灯の光束が二人の少年を捉《とら》えた。 「何だ、おめえら?」  光源の向こう側にいる男の姿は見えなかったが、雨合羽《あまガツパ》から滴《したた》り落ちる水滴が床を叩く音で少年は萎縮《いしゆく》した。 「どこの者《もん》だ? 何をしとるんや?」  相手が少年と見て、男はズカズカ、近寄った。電灯を舐《な》めるように顔に近づけ、「盗人《ぬすつと》か?」と、『ノリちゃん』の胸倉を取った。『タロちゃん』は無言で棍棒を打ち下ろした。グシャッといやな音がして、男は床に沈み込んだ。懐中電灯がゴロゴロと転がっていった。 「逃げよう……」  入口に向かいかけて、二人はもう一度、身を潜めた。表の様子がただごとではなかった。闇の中に大勢が走り回り、叫び合いしている。風雨の音とは異なる、ごうごうという音が地鳴りのように響いてくる。  厚さ五〇センチほどの前衛波が村を通過中であった。戸外に出ていた人々は足を掬《すく》われ、塩辛い泥水の中に倒れた。  農協事務所の入口から奔流が躍り込んできた。二人は周章《あわ》てて階段を駆けあがった。床に倒れた男が起きてくる気配はない。 「あいつ、死んでしまうで」 「かまうもんか!」  それどころではない恐ろしい事態が起こりつつある、という予感があった。  第二波はさらに深く地表を蔽《おお》い、そして悲劇的な第三波が襲ってきた。  巨大な流木の集団が、それ自体、うねりと化して、数万トンの海水を率《ひ》き連れて攻め上がってきた。防潮堤はいたるところで破壊され、潮位下の土地は完全に無防備な状態で海の暴威に晒《さら》されることになった。しかし浸水だけならまだしも被害はさほどのことはなかったであろう。悲劇を決定的なものとしたのは流木集団の乱入だった。一本がそれぞれ数トンもある流木はすさまじい破壊力を示した。なかば水没し不安定な状態にある木造家屋などは、一撃で吹っ飛んだ。二階や屋根の上に避難していた人々は、あっと思うまもなく暗黒の�海�に放り込まれ、さらにその上を流木の群れが奔り去った。  農協事務所は村中の建物の内で、よく持ちこたえた方だったろう。二人の少年は二階の窓から、奔流の音とともに阿鼻叫喚《あびきようかん》が闇の底を流れ去るのを、幾度も聴いた。  流木が接触するたびに、建物ははげしく揺れ、どこかの窓ガラスが弾《はじ》けた。勢いを増した風圧も、建物の内側から屋根を浮き上がらせようとする。いずれにしても倒壊は時間の問題だと思わせた。 「ノリちゃん、いまの内にその机に掴《つか》まっていろや、いつ流されるか分からんで」 「わしら、死ぬんじゃろか」 「あほ、死んでたまるかいな、ええか、どんなことがあっても生き延びるんやで」 「タロちゃん、絶対、離れんでくれな」  轟音《ごうおん》と同時に、二人は床に投げ出された。いや、床そのものが動いていた。メリメリと柱や壁が分解する音がして、建物は倒壊しながら押し流されつつあった。 「ノリちゃん、どこや!」 「タロちゃん、離れんでくれ!」 「頑張るんや!」  呼び交わす声が、しだいに遠ざかる——。 第一章 安全犯罪     1  萌子《もえこ》が当山《とうやま》と会ったのは、『サルート』に勤めるようになって、丸二年ほど経った頃のことであった。 『サルート』は、いわゆる�銀座の店�としては一流というわけにはいかない。場所も三丁目だし、オフィスビルの地階というのも、まあまあの立地条件といったところだ。フロアの真ん中にグランドピアノを据えて、弾き語りを入れているあたりは、それなりの格式を感じさせるし、若い娘《こ》を揃《そろ》えた雰囲気は陽気で、悪くはない。それでも、なおかつ、一流の仲間に加えられない理由は、とどのつまり歴史の浅さということになるのかもしれない。そしてそのことは、端的に客種の違いとなって現われている。 『サルート』の客はサラリーマンが主流だ。それも、どちらかといえば若い客が多い。一流趣味を鼻にかけるような客には、そぐわない店なのだ。料金も銀座としては安い方で、独《ひと》り気ままに飲むにはうってつけだ。当山もそういう客のひとりと考えられていた。  当山は、どちらかといえば、目立たないタイプの客であった。萌子がはじめて当山についたのは、三度目の来店の時だが、前二回のことを、萌子はまるで気付いてなかった。『サルート』はそんなに広い店というわけでもないのだから、いくらお客が立て込んでいたにもせよ、目敏《めざと》いことでは人後に落ちぬ萌子の目にもとまらなかったということは、いかに当山が地味な存在であるかを物語る。 「真弓《まゆみ》ちゃん、あのお客さんについてみない?」  ママが声をかけて寄越した時、萌子はカウンターの丸椅子《まるいす》に横座りして、バーテンが作ってくれたカクテルに口をつけようとしたところだった。「真弓」は萌子の店での名だ。 「頭のいい子がいいんだって」  ママは皮肉っぽい言い方をした。ママは萌子に好意を持っていない。ママに限らず、店の連中は総じて、萌子をけむたがった。「お高く止まっている」というのが、共通した萌子評である。萌子自身、何も無理してまで、連中の程度の低さに同化するつもりはなかった。  客に対しても同じことが言えた。ケチな飲み方で、そのくせ初会から(ものにしてやろう)という底意がみえみえの客にはうんざりした。それもこれもサービス、と割り切って馬鹿になりきることができない。商売っ気がない、と言われるし、自分でもそうだと弁《わきま》えているのだけれど、いざその場になると生理的な拒否反応を感じてしまう。  誰それは、客の誰それと十万で寝た——というような噂《うわさ》を絶えず耳にし、それがあたりまえのような世界だし、自分ものどから手が出るほどお金は欲しい。いつまでも使われる身でいる気はない。遅くとも三十歳までには自分の店を持ち、外車を駆って郷里へ還《かえ》るつもりだ。そのために選んだ道のはずであった。いまさら、きれいごとを言うのなら、最初から平凡なOLになって、それなりの相手をみつけて結婚する方がどれほどましかしれない。  それは分かっている。分かっているけれどどうにもならない部分が、萌子の性格には、あった。  静岡県|島田《しまだ》市の女子高を卒《で》て、東京の私大に入った。その時、同じ演劇クラブにいたKは進学しないで、六本木《ろつぽんぎ》にある俳優養成所に入っている。じつは、萌子もKと一緒に養成所の試験を受けて落とされたのだ。あわよくば大学とかけもちで——と目論んでいただけに、この挫折《ざせつ》はショックだった。高校の演劇活動では、萌子はいつもヒロインを演じ、それに比して、小柄でひ弱なKは脇役《わきやく》を務めるのが常だったから、耐えがたい屈辱でもあった。  萌子は養成所に電話して、Kと自分のどこが違うのか、当落の基準を問いつめた。  応対に出た審査員は、最初の内は答えを渋っていたが、あまりのしつこさに腹を立てたのか、「それじゃ、お教えしましょう」と声を荒らげた。 「あなたの演技は皮膚の上っつらだけで演じている。それに対して、Kさんは骨の髄《ずい》から演じようとしている。その差は決定的ですよ」  痛烈な指摘であった。言われてみれば、萌子には役になりきった演技をした記憶がない。いつの舞台でも、どうすればウケるか、どうすれば魅力的であり得るか、だけを考えていたような気がした。  Kは一年も経たないうちに舞台に立ち、まもなくテレビ局に認められ、大きな連続ドラマのレギュラーに抜擢《ばつてき》されたのを皮切りに、いまでは、若い女優の中では数少ない性格俳優として、ひっぱりだこのスターであった。  大学三年の夏休み、島田に帰って、Kのサイン会にぶつかった。地元をあげての騒ぎようで、まさに凱旋《がいせん》というところだった。何より我慢ならなかったのは、帰省したばかりの萌子を放ったまま、家中の者がKの顔を見に出掛けていったことだ。萌子は家人が留守の間に家を出て、東京へ戻った。それきり、四年以上、郷里の土を踏んでいない。  大学時代にバイトで始めたホステス業が、いつのまにか止《や》められなくなっていた。卒業したての一時期、小《ち》っぽけな会社の事務員をやってみたけれど、お茶汲《ちやく》みに毛の生えたようなくだらない仕事と薄給がばかばかしく、三月ともたずに、辞《や》めた。  学士の肩書など、世の中では何の役にも立たない勲章だった。先見の明という点でも、萌子はKに敗れた。いまとなっては、萌子がKに対抗できる手段は金の力にしか可能性が残っていない。クラブのホステスという職業は、目的を達するために、覚悟を定めて選択した道であった。にもかかわらず、万事、きれいごとで済ませようとする萌子の性格は、ここでも、徹しきるということができずにいた。バイトで勤めている時の、無意識の裡《うち》に下風《かふう》に見ていたホステスに自分がなって、なりふり構わずその道に徹しきれるはずもなかった。 「頭のいい子を——」という、当山の指名理由が気に入って、萌子は珍しく愛想よく振舞った。それが効果的だったのか、次回の時も、当山は萌子を指名した。  当山は不気味なくらい、表情の乏しい客だった。服装は、型に嵌《は》まったように、渋い色のスポーツシャツの上に同系色の上衣を着ていた。  どんなに店が空いていようが、萌子以外の女を寄せつけようとしない。そして、低い声で、主として萌子の身の上話を根掘り葉掘り引き出した。年齢は三十六だというが、ちょっと見には四十代なかばのように見えないこともなかった。  いわゆる聴き上手《じようず》というのだろうか、当山は回を重ねるごとに、萌子の物の考え方や生きざまを丹念に訊《き》き出し、その内、どこでどう調べるのか、萌子が話した憶えのないことまで、事細かな知識を持つようになっていた。その入れ込みようから見ると、どうしたって色気抜きには考えられないのだが、当山にそれらしい気振《けぶり》は、ついぞなかった。それが萌子には不可解でならない。と同時に、いったい何が目的なのか、という興味がつのった。 「あんたに折入って話がある」と当山が言い出したのは、七、八度も�逢《お》う瀬《せ》�を重ねた頃のことだ。 「三年足らずで、一億五千万ばかりになる仕事があるのだが、仲間にならないか」 「あら、ずいぶん景気のいい話ね」  萌子は、はぐらかすように笑ったが、当山は別に憤りもせず、真面目《まじめ》くさった表情を変えなかった。 「これは冗談なんかではない。そのために、あんたのような女性をずうっと探していたのだ」 「あたしみたいな女?……」 「そうだ。頭がよくて、色気より金に関心の強い女だ」 「どういう意味、それ? がめつくて、男にもてないってことかしら」 「そうではない。言葉どおりだ。あんた自身、将来、自分の店を持ちたいと言っていたじゃないか。かりに男を作るにしても、目的を達成するための道具としてだろう」  図星《ずぼし》だわ——と萌子は思い、黙った。 「しかし、銀座で店を持つつもりなら、最低三千万はかかる。少し余裕を見れば五千万は欲しい。順調に稼《かせ》いだとしても、この先、十年では覚束《おぼつか》ない。あんたはもう、四十に手が届く歳だ。その時になって挫折を悟っても、もう遅い。人生は下り坂にかかっている。かといって、有力なパトロンをみつけようとしても、あんたにそういう相手ができる可能性は、まずない」 「失礼ね」 「いや、馬鹿にして言ってるのではない。くだらんヒヒおやじなんかに、あんたの良さなど分かるはずがない、ということだ。しかし、僕なら、あんたに三年後には間違いなく、五千万円をプレゼントできる」 「あら、一億五千万じゃないの?」 「それは全額で、ということだ。あんたの取り分は三分の一の五千万……」 「じゃあ、仲間は三人、てこと?」 「そうだ」 「もう一人は、誰なの」 「それは僕の友人、とだけ教えておこう」 「だけど、何をやるつもり?」 「いま言うわけにはいかんよ。あんたの返事次第だ」 「どうせ、ヤバイことなんでしょう。人殺しなんかするんじゃないの?」 「ばかな。そんなことをやる奴《やつ》はゴロゴロしている。最悪、どう転んでも罪にならないような方法だ。第一、誰も損をする者はいないのだからね。言ってみれば完全犯罪ではなく安全犯罪だ」 「そんなうまい話、あるかしら」 「ある。しかし、そういうチャンスを持っているのは、百万人に一人か、千万人に一人か、とにかく、滅多にいないだろうがね。ところが、僕はそのチャンスを持っている」 「ふうん、面白そうな話ね……」 「面白いなどということは言ってもらいたくないな。これは大きな事業計画だと思ってくれ」 「それで、あたしの役割は、何なの?」 「それも、いまは言えない。あんたがオーケーを出せば、その時から共同経営者として、すべてを話そう」 「もし、ノーと言ったら?」 「あんたはノーとは言わないよ。五千万を棒に振るほど、あんたは馬鹿じゃないからね」  当山は憎らしいほど自信たっぷりに断言してみせた。 「分かったわ、でも、ちょっとぐらい、あたしのすることを教えてくれてもいいじゃない。まるっきり雲をつかむような話じゃ、いくらなんでも思案のしようがありませんもの」  当山は少し考えてから、しようがないなと苦笑しながら、萌子の耳に口をつけるようにして、囁《ささや》いた。 「あんたには、結婚してもらうよ」 「結婚?……、当山さんと?」  萌子は呆《あき》れて、少し身を反《そ》らせた。当山はいそいで周辺を見回した。近い席には誰もいない。 「そう願いたいのは山々だがね、残念ながら結婚の相手は友人の方だ」 「いやだァ、そんな、会ったこともない人と結婚だなんて、冗談じゃないわァ」 「いや、結婚といっても、形式上、一緒に暮らしてくれればいい。ベッドを共にする必要はないのだ。もっとも、あんたがその男に惚《ほ》れて、その気になるのは止めはしないけれどね」  当山は笑いもせずに、言った。     2 �お見合い�は新宿西口の『滝沢《たきざわ》』で行われた。広いフロアの高級喫茶室といった感じの店で、商談や待ち合わせの客が調法して、よく使う。  萌子は自宅近くの道路で、当山の運転する車に拾われた。「いい車ね」とお世辞のつもりで言うのに、当山はぶすっとした顔で「レンタカーだ」と言った。  相手の男はすでに『滝沢』にきていた。  二人が近づいていっても、席を立って迎えようとしなかったのは、あくまで、目立たぬための配慮なのだろう。 「彼があんたの亭主になる、稲田教由《いなだのりよし》だ」  当山も腰を下ろしたまま、紹介した。 「よろしく、萌子です」 「よろしく」  陰気な男だわ、というのが、稲田教由という人物に抱いた、萌子の第一印象だった。どこか、当山と通じるところがある。歳恰好《としかつこう》も当山に近く、その年齢になるまで独身でいるというのには、それなりの理由があるということなのかもしれない。  しかし、見たところ、醜男《ぶおとこ》というわけでもなく、また、身体的欠陥があるようにも思えなかったので、萌子はいくぶん安心した。  稲田は無口な性格なのか、当山の言葉に相槌《あいづち》を打つ以外、ほとんど自分から話しかけることをしない。  当山も必要外のことは何も言わなかった。 「新居は南|品川《しながわ》のアパートに当たりをつけてある。契約には奥さんが行くから、と電話で言っておいた」  当山が「奥さん」と言ったのが自分を指していることだと気が付いて、萌子は赧《あか》くなった。 「やだわ、奥さんだなんて」 「照れてる場合じゃない、と言いたいところだが、まあ、それもいいだろう。かえって新婚らしい初々《ういうい》しい感じがあるかもしれない」  当山はまじめくさって言う。 「婚姻届もあんたにやって貰《もら》う。保証人の名前は、あんたの親戚《しんせき》の中から適当に選んで、三文判を捺《お》しとけばいい」  要するに、稲田をなるべく第三者に接触させないようにしろ、と当山は言っている。 「根本的なことだけ確認しておきたいんだけど」 「何だい」 「一緒に住むだけっていう約束は、必ず守っていただけるんでしょうね」 「ああ、そのことか。大丈夫だが、心配なら本人に訊《き》いてみてくれ」  どうなの? と、萌子は稲田の顔を窺《のぞ》き込んだ。 「大丈夫です、約束は守ります」  稲田はいかにも小心らしく、か細い声を出した。 「お仕事は何をしてらっしゃるの?」  稲田が逡巡《しゆんじゆん》するのを、当山が横からさらうように言った。 「無職だ。小説家の卵、ということにしておこう」 「無職?……」 「心配しなくても、収入の方はなんとかなる。あんたの稼ぎをあてにするというわけではない」 「趣味とか、食物の好き嫌いとか、それに、身内の関係とか、聞いておかなくっていいのかしら」 「一度にいろいろ聞いてもしようがないだろう。まあ、これから長い付き合いになるのだから、お互い、おいおいに相手を知ればいいじゃないか。夫婦とはそういうものじゃないのかね」  当山ははじめて、ほんの少しだけ笑った。 「これは観客のいない芝居だと思ってくれ。あんたたちが、いかに上手《うま》く夫婦役を演じることができるかに、成功の鍵がある。僕は作者であり演出家でもあるが、これから先は僕の出番はない。幕が上がったら、あとは役者まかせだからね、よろしく頼むよ」  当山の比喩《ひゆ》は萌子を喜ばせた。 「任せておいて、お芝居なら、ちょっと自信があるの」 「分かってるよ、あんたは高校で演劇部のスターだったからね」 「あら、どうして知ってるの? 誰にも話したことないのに」 「あんたのことなら、大抵《たいてい》のことは知ってるつもりだよ。それでなければ、こんな大芝居に参加してもらうわけがない」  ふふん、と萌子は小鼻をふくらませた。当山が巧妙に虚栄心をあおっているのは分かっていたが、悪い気はしない。 「それで、いつから始めればいいの」 「あんたの都合に合わせる。ただし、婚姻届を出す前に、本籍をいったん、いまの住所に移した方がいい。家族の者が戸籍謄本を取って、あんたの結婚を知ったら大騒ぎになるだろうからね」 「分かったわ。彼の方もそうするのね」 「いや、稲田の方は移しても移さなくても同じだ。狭い村だから、戸籍に変わったことがあれば、役場の戸籍係が気がついて、すぐに家に連絡してしまう」 「それじゃ、やっぱり騒ぎになるんじゃないのかしら」 「騒ぎになっても、おいそれと出てこられるようなところじゃないんだ」 「どこなの、故郷《くに》は」 「高知県だ。高知県の西のはずれの山の中。西|土佐《とさ》村|藤《ふじ》ノ川《かわ》という、平家の落人《おちゆうど》部落だよ。いいところだ……」  当山は、別人のような優しい眸《め》を、宙にあそばせた。  萌子と稲田の奇妙な新婚生活が始まった。当山がみつけた南品川のアパートは、お世辞にも上等とはいえない代物《しろもの》だった。1DK、バス・トイレ付きというタイプだけれど、これまで萌子が住んでいた渋谷《しぶや》区|桜ケ丘《さくらがおか》の女性専用のアパートと較《くら》べても、見劣りがする。 「いずれ、出費が増えるからね、無駄なゼニは使えないのだ。辛抱してくれ」  当山は萌子の不満に、珍しく頭を下げた。 「それはいいけど、一部屋に一緒に寝るなんて、いやだわ」 「いや、稲田はダイニングルームで寝るから大丈夫だ」  その言葉どおり、稲田はダイニングキッチンの隅にソファーベッドを置いて、そこで寝た。そのソファーベッドだけが、唯一、稲田の持ち込んだ財産で、あとの家財道具や什器《じゆうき》類は、すべて萌子の所有物だった。 「あなた、いままで、どこでどうやって暮らしていたの?」  萌子が訊いても、稲田はへへへと不得要領に笑うばかりで、さっぱり煮え切らない。一緒に暮らすようになっても、無口と小心に変化はなく、萌子が最も恐れていた�夫婦生活�の要求を持ち出すことも、まったくなさそうだ。  ふだんは、萌子は四時頃家を出て十二時過ぎに帰宅する。一方の稲田はかなり不規則で、大抵は家にいるが、時折、思い出したように出掛け、それも、朝早かったり、午《ひる》過ぎだったり、場合によっては、夜中、萌子が帰宅しても、まだ帰っていなかったり、そのまま外泊することもあった。  家にいる時の稲田はテーブルに原稿用紙を展《ひろ》げ、何やら熱心に書いている。萌子が関心を示すと、さっと隠して、止めてしまう。 「見せてくれてもいいじゃない」と萌子が口を尖《とが》らせると、「その内に見せるよ」と、ぶっきら棒に答える。稲田の留守の時を見計って、原稿用紙を見ようと思っても、いつも持ち歩いているらしく、白紙のものだけが残されていた。ただ、チラッと覗いた感じでは、かなり難しそうな内容に思え、英語の本や辞書と首っ引きの仕事のようでもあった。  小心で人畜無害の男としか考えなかった稲田教由に、想像外の才能を発見したような気がして、萌子の胸に好奇心が芽生えたことは事実だ。 �結婚�してから一か月はまたたくまに過ぎた。萌子は『サルート』の連中にも、お客にも、結婚したことを隠そうとしなかった。店の側では、独身で通した方が得だと言ったのだが、むしろ、それに反撥《はんぱつ》するように、結婚話を吹聴《ふいちよう》した。そうして、じっとカモの接近を待った。  最初のカモはアパートの方へやってきた。Nという生命保険の女性|勧誘員《セールス》だ。それほど熱心な勧誘があったわけでもなかったが、萌子は「一口ぐらいなら」と、あっさり加入することにした。  セールスは災害死亡時の保障額が大きい商品を奨《すす》めた。 「万一の時には、最高二倍まで支払われますよ」  月々、約二万円の掛金で四千万円の保障になるという。 「そう、それで結構よ。ただし、入るのは主人の方。あたしはまだ若いから、保険はいらないわ」  すぐに契約がまとまった。医師による審査も別に問題はない。稲田教由はきわめて健康状態がよく、文筆業という職業も事故発生の危険性が最も少ない職種に入る。保険会社にとって、安全な客であった。  すべてが順調に運び、保険証書を手にした時、萌子は妙に気抜けしたような想いにとらわれた。 「これで、あなたが死ぬと、確実に四千万円がとこ、手に入るわけねえ」  萌子のブラックジョークに、稲田はニヤニヤ笑うだけで、相変わらず、掴《つか》みどころがなかった。 「おかしなもんね、婚姻届を出した時には、なんとも思わなかったんだけど、こうして保険証書を手にしたら、なんだか急に、結婚してるんだなって、実感が湧《わ》いてくるのよね」  チラッと稲田を見ると、稲田も萌子を見ていた。眸《ひとみ》の色がいつもと違う。萌子はドキッとした。稲田に初めて男を感じた。  しかし、それは一瞬の錯覚だったのかもしれない。稲田は萌子の視線にでくわすと、慌《あわ》てて眼を伏せ、いつもの小心な姿に戻ってしまった。  稲田はまったく、自己主張のない男だった。はじめの内こそ、上目遣いにひとを見る様子に薄気味悪さを感じたけれど、慣れてくるにしたがって、気にならなくなった。狭い家に鼻つき合わせて暮らしていながら、萌子は時として、稲田の存在を無視するような、気儘《きまま》さでいられた。浴室《バス》を使う時など、神経質に、稲田を外出させていたのが、いつのまにか、奥の部屋の方に追いやるだけになり、その内、稲田の目の前をバスタオルを巻いただけの恰好で歩くようにさえなった。  そういう時の稲田はじつに惨《みじ》めで、オロオロと目を伏せ、慌てたようにテーブルの上の原稿用紙にしがみついた。  それが面白く、わざと挑発的《ちようはつてき》なポーズをとるような、サディスティックなところが、萌子にはあった。  このひと、不能《インポ》じゃないかしら、と萌子は思った。店にくる客たちの、ギトギトするような欲望を見慣れている目には、信じられない無気力ぶりだ。ふつうの男なら、いくら禁じられているからといっても、鍵もかかっていない隣室に無防備同然の、しかも、法的には「妻」である女がいて、欲情をそそられもせず、襲いかかろうともしない、などということはありえないだろう。  ふしぎなもので、警戒する必要がなくなってくるにつれて、なんとなく物足りなさを感じるようになった。容貌《ようぼう》もスタイルも、一応のものだという自負があるだけに、稲田が食指をのばそうともしないことに、萌子はむしろ、侮辱《ぶじよく》されているような苛立《いらだ》ちを感じはじめていた。 「あんたの方が惚れて、その気になれば別だ」と言った当山の予言が、憎らしかった。  実際、当山には予知能力があるのではないか、と思えるほど、彼の描いたシナリオどおり、すべてが順調に進んだ。 『サルート』の客で生保会社の社員が萌子の結婚を知って、保険に加入するよう、奨めた。 「お客さんには逆らえないわ」  萌子はママや同僚たちに嘆いてみせながら、まあ、店の売り上げのためにもなるし、と契約をした。一社とそういう関係になると、しぜんほかの社の客にも義理立てをしないわけにいかない状況になってくる。同じ会社同士でも、あいつとだけ契約するのは怪《け》しからんと言い出す始末だ。 �結婚�からほぼ一年がかりで、保険契約は六口になった。そうなってからも、客の中にはしつこく勧誘してくる者もある。 「これ以上は無理よ、あたしの収入じゃ、保険料が払い切れなくなっちゃう」  萌子はきっぱりと断わった。むろん、それも当山の指示による。萌子は「もう一口ぐらい大丈夫よ」と言うのだが、「いや、これくらいが限度だ」と当山は首を振った。じつはそう言われてから、萌子は一口、契約を増やしている。 「これは、あたしのヘソクリ」  萌子は稲田に笑いながら言った。 「当山さんには内緒よ、いいわね」  稲田は困った顔をしたけれど、結局、萌子に逆らうことはしなかった。しかし、このことによって、二人のあいだには、当山に対する共通の秘密が生まれた。と同時に、それは絶対的優位を誇っていた稲田との関係の中に、はじめて生じた、萌子の負い目でもあった。  前半の一年間にはきちんとした目的のあるシナリオが書かれていたが、後半の一年はただ待つことのみに費《つい》やされる。かといって、破綻《はたん》は許されない。緊張と退屈が共存する奇妙な日々の連続だった。  稲田が徹底して忍従するタイプの人間であることが分かると、萌子の大胆な振舞いはいよいよエスカレートした。湯上がりの肌を露《あら》わに、肩を揉《も》ませたり、逆に「背中、流してあげる」と、いきなりバスルームに入っていったりした。  稲田はそのつど、ドギマギするが、結局は萌子の言いなりになった。それはたしかに面白いゲームであった。刺激的であり、優越感を満足させる。だが、刺激に馴《な》らされると、さらに新しい|遊び《ゲーム》のスタイルを求めて、際限なく�危険�な行為に踏み込んでいくようになった。稲田を虐《いじ》めてやろうという試みが、いつのまにか、自分自身を欲求不満の泥沼に追い詰めてゆくことに、萌子は気付いていなかった。  ある夜、店で度を越した飲み方をしたせいか、浴室を出ようとして、萌子はよろけた。  躰《からだ》に巻いてあったタオルが床の上に落ちたのを、拾おうとした恰好のまま、崩《くず》れ伏せた。稲田はダイニングキッチンのテーブルに向かっているところだったから、しどけない姿を、もろに男の目に曝《さら》すことになった。起《た》ち上がろうとしたけれど、思いどおりに躰がいうことをきかない。萌子は投げやりな気持ちになって、思いきり、手足を投げ出した。  たゆたうようなけだるさと、稲田の視線を浴びているという緊張が交錯して、いいしれぬ快感が萌子を包んだ。 「だいじょうぶかい……」  稲田は離れたところから、声をかけた。 「何してんのよォ」  萌子の呻《うめ》くような声に、ようやく腰をあげたが、どう対処していいのか、ただオロオロと手をつかねている。 「医者を呼ぼうか」 「ばかねえ、蒲団《ふとん》まで運んでくれればいいのよ」  稲田はおそるおそる、萌子の両脇に手を差し入れた。乳房に触れた瞬間、ピクンと全身を震《ふる》わせたのが萌子にも感じとれて、思わず、ふふ……、と笑った。 「男でしょう、しっかり抱いていってよ」  抱かれやすいように、萌子は仰向けになった。アルコールとバスを使ったせいで、ピンク色に染まった裸身の中の、くろぐろとした茂みが、稲田の視野に晒《さら》された。  稲田が慌ててバスタオルの裾《すそ》で覆い隠そうとするのを、萌子は酔ったふりを装《よそお》って邪険に払い除《の》けた。 「早く運んでよ」  観念したように、稲田は右腕を背に、左腕を両脚に回して、萌子の全身を抱き上げようとした。見かけによらず膂力《りよりよく》は相当なものだ。肉付きはそれほどでもないが、どちらかといえば柄の大きい方に入る萌子が、ともかくも持ち上がった。 「へえー、あんた、力があるのねえ」  萌子は眠たそうな声を出して、稲田の首に腕を巻きつけた。  よたよたと蒲団まで運んだところで、稲田は堪《た》えきれなくなったのか、萌子を下ろすのと一緒に、その躰の上につんのめった。  萌子は首を巻いた腕を放さない。稲田は苦しがって、「うう」と呻いた。その声が萌子の欲情を煽《あお》った。  萌子は稲田の頭を抱《かか》え、乳房に顔を押しつけさせた。 「吸いなさいよ」  命令口調で言った。  稲田は喘《あえ》ぎながら、石鹸《せつけん》の匂《にお》いのする乳首にむしゃぶりついた。     3  太平洋高速フェリー所属の『しーふらわー号』は総排水量一万三〇〇〇トン、乗客定員一〇七九名という、わが国屈指の豪華客船で、自動車航送能力はトラック百台、乗用車九十二台におよぶ。最高速度二六・二ノット、東京—高知間を約二十一時間で結ぶ快速ぶりだ。東京湾を午後六時二〇分に出航、翌朝、南紀《なんき》の那智勝浦《なちかつうら》港に立ち寄り、午後三時頃、高知港に入る。  定員三名の貴賓室が二部屋あるほか、バス・トイレ付きの特等客室が十八もあって、新婚のカップルや旧婚旅行を楽しもうという老夫婦などの人気を集めている。船内にはデラックスなグリルやラウンジ、レストラン、バーをはじめ、サウナ風呂、ゲームコーナー、さらに甲板にはプールまで完備されていて、船旅の楽しさをひととおり満喫してもらえるというのがうたい文句だ。  ゴールデンウィークたけなわの五月一日、『しーふらわー号』は満室の乗客を載せて定刻どおり、東京湾を離れた。  天気は晴だったが、六、七メートルの南西風が吹いていて、三浦半島を出外れた辺《あた》りから多少、波があった。とはいっても、この程度の波では船がガブるようなことはない。大型船が影響を受けるような波は、うねりの幅が一四〇メートル前後だが、『しーふらわー』の全長は一九八メートルで波長をはるかに越えている。また、ローリングに対してはフィンスタビライザーを装着、横揺れを最低限まで抑制する。要するに、台風でもないかぎり、航行は安全で快適、といっていい。  出港して二、三時間が、船内のにぎわいのピークである。午後六時二〇分の出港というのが、じつはなかなかのクセモノで、乗船手続きは一時間前という規則だから当然、乗客のほとんどは空《す》きっ腹をかかえて乗り込んでくることになる。グリルもレストランもビュッフェも満席、順番待ちの大盛況というわけだ。  甲板《デツキ》には夕景を見ようという人々が鈴生《すずな》りになる。この時季は日も長く、午後八時近くまで残照が楽しめる。空の色、海の色が刻々変化するさまや、シルエットのように浮かんでいた陸地がいつのまにか闇に包まれ、灯台の光が点滅するのを眺めていると、ドライで即物的なはずの若者でさえ、もののあわれを知るロマンチックな気分をそそられるのである。  しかしそれも八時過ぎ頃までが限度で、海の夜風は風流というにはまだ冷たすぎる。甲板からは人影が消え、夜の楽しみはラウンジやゲームコーナー、バーなどへ移ってゆく。特等室の若いカップルは、はやばやと部屋にこもる者も多い。二等客室ではグループ客があちこちで輪をつくり、トランプ遊びに嬌声《きようせい》をあげている。旅慣れした商用客や、故郷へ帰るらしい独り客などは、喧騒《けんそう》を迷惑げに睨《にら》みながら、毛布を被《かぶ》って横になる。そうして、潮騒《しおさい》が引くように、しだいにさんざめく声が消えてゆくのである。  レストランや売店は九時半頃までに閉店し、バー、喫茶ルームに残っていた客たちも十一時過ぎには全員、引きあげた。ざわめきが去ると、にわかに、機関の単調な音や、船腹を打つ波の音などが聴こえてくる。案内所《インフオメーシヨン》に詰めている事務員が大きく伸びをした。  午前〇時、船橋《ブリツジ》では航海士と甲板手《こうはんしゆ》がそれぞれ交替する。四時間の勤務を了《お》えて、一等航海士の堀《ほり》ノ内《うち》は甲板手の樋口《ひぐち》とともに船橋を出た。航行はすべて自動操舵《オートパイロツト》に任《まか》せているようなものだから、ずいぶん気楽そうだが、決してそういうわけにはいかない。一万三〇〇〇トンの船体と千名を越える人命を預かっているという意識は、どんなベテランにとっても容易ならぬ重さなのである。  航海士の堀ノ内は三十一歳、商船大学一本にしぼり、一年浪人したくらいだから、根っからこの仕事が好きでたまらない�海の男�だ。船長に次ぐナンバー|2《ツー》という責任の重さも、彼にとってはやりがいでしかない。もっとも、そのせいか堀ノ内はいまだに独身で、鹿児島本社近くの会社寮|生活《ぐらし》を続けている。  船橋《ブリツジ》からパブリックスペースへ出たところで、樋口が煙草《たばこ》を出し、堀ノ内に奨めた。 「例の件、考えてくれました?」  樋口は言いにくそうに切り出した。�例の件�とは、堀ノ内の縁談のことである。相手は樋口の妹で、樋口の話によれば、「久美のヤツ、堀さんを見初《みそ》めたんですよ」ということだそうだ。「見初めた」という古風な表現に、堀ノ内は四つ歳下の樋口を前にして、大いに照れた。  樋口久美は東京支社の営業窓口に勤務している。「俺《おれ》に似て、美人です」と樋口は売り込むが、堀ノ内には会った記憶がなかった。久美が堀ノ内を�見初め�たのは研修航海の時だという。太平洋高速フェリーでは入社直後、男女を問わず、二泊三日の研修航海を経験する。自社の船に乗り、船内業務についてひととおりの知識を身につけるためだ。当然、船橋《ブリツジ》の操舵室《そうだしつ》も参観するわけで、その時に制服姿の堀ノ内の颯爽《さつそう》たる勤務ぶりにひと目惚れしたというのだから、なんとも尻《しり》がこそばゆくなるような話だ。しかも、久美の入社は一昨年《おととし》である。つまりは二年間の�秘めた恋�だったというのも、いまどき信じられない純情ではないか。「久美のヤツ、あの素敵な堀さんが独身だと知って、はじめて俺に打ち明けたんです」と告げる樋口の目にも真情があふれていて、堀ノ内はいささか参った。たしかに仕事面では自分でも申し分ない人間だと自負する気はあるけれど、�純情兄妹�に見初められるほど、清く明るく美しいわけではない。いっぱしの男として、それなりに怪しげなところにも出没するし、制服姿からは想像もつかないような、ものぐさな一面もある。憬《あこが》れの虚像など、早晩《そうばん》、化けの皮が剥《は》がれてしまうに違いないのだ。それを思うと、せっかく持ち込まれた結構な話にも気が重くなる。 「次の航海明けの時には、ぜひ会ってやってくださいよ、東京一|旨《うま》いうなぎをおごりますから」 「なんだい、エサで釣ろうなんて、妹さんを冒涜《ぼうとく》することになるんじゃないか」 「冒涜でもなんでも、この際、そんなことは言ってられません、いいですね、次の東京泊まりの時、決めましたよ」  言うだけ言うと、樋口は最上層|甲板《デツキ》の左舷《さげん》に出ていった。堀ノ内も苦笑の残る表情で右舷に通じるドアを押した。  定刻交替を終了した船橋《ブリツジ》勤務者は、休息室へ入る前に全船の巡回を行なうきまりになっている。巡回は航海士と甲板手が両舷に分かれて同時進行し、末端で合流、異常のないことを確認しあったのち、さらに下部の甲板に下りてゆく。 『しーふらわー』の船体は4FからB22までの六層構造になっている。船橋《ブリツジ》とスカイラウンジのある4Fにはじまって、3Fには貴賓室、特等室、二等客室、レストラン、ビュッフェと、後部甲板のプール、2Fには一、二等客室、ドライバーズルームとインフォメーション・ロビーがあり、1Fはトラック格納甲板、B11は乗用車格納甲板。そしてB22には大浴場、サウナのほか、予備客室がある。二人で手分けしても隈《くま》なく歩くとなると約一キロの距離だ。  エアコンの効いた船橋《ブリツジ》を出ると、深夜の海風が身に沁《し》みる。右舷沖合を点滅しながら過ぎてゆく灯台は神子元島《みこもとじま》だ。堀ノ内は腕時計の夜光文字を確認した。〇時一〇分、ほぼ定刻どおりの運航である。  船尾へ向かって規則正しい歩調で歩く。いくら揺れが少ないといっても外洋のクルージングだ、ゆっくりした上下動のあるのはやむをえない。その条件に合わせた歩行テクニックが身に付くと、地上での歩き方が妙に浮き浮きしたようなフォームになっている。  上甲板の最後部で左舷の樋口と「異常なし」の確認を交わし、3Fへの階段を下りる。下りたところは3Fの開放部分《オープンスペース》になっていて、サニーガーデンとプールがある。日中は若い人たちでにぎわう場所だが、この時間では人っ子ひとりいない……はずであった。  プールサイドで樋口と離れ、船首方向へ歩く堀ノ内の行く手に人影があった。そこはレストランの外壁に沿った歩廊だ。船内への入口に突き当たるまでの約三〇メートルのほぼ真ん中付近に、舷側の手摺《てす》りにもたれた男がいた。灯火のとどきにくい場所だったから、ずいぶん近くまで寄って、はじめて男性であることが確認できた。 「やあ、ご苦労さんです」  男の方から声をかけて寄越した。舌のもつれ具合といい、身ぶり手ぶりの様子といい、かなり酔いの回った客らしかった。 「ご機嫌ですね」  堀ノ内はお愛想を返した。 「お気をつけてください」 「ありがとう、少し酔いをさましたら戻りますよ」  男は素直に礼を言った。陽気なだけの酔っ払いのようであった。船の揺れもたいしたことはないし、べつに危険があるとも見えない。堀ノ内は挙手の礼を送って、その場を通り過ぎ、ドアを押して船内へ入った。そこから船首方向へ、特等客室の内側廊下を進むことになる。反対側からは樋口が丁度、入ってきたところだった。「異常なし」を相互に確認して、一歩、踏み出そうとした時、背後で悲鳴が起きた。  反射的に外へ飛び出した時には、すでに男の姿はなかった。 「どうしたんです?」  樋口も後を追って出てきた。 「いま、悲鳴が聴こえたんだ」 「ええ、俺も聴きましたよ」 「そこに男のお客が立っていたんだが、いなくなってる」 「じゃあ、落ちたんですか?」  二人は手摺りから身を乗り出して、船尾方向に瞳《ひとみ》を凝らした。波の音だけが聴こえる。 「俺が聴いた感じでは、悲鳴は確かに落ちていったと思う」 「どうしますか……」 「とにかく、救命ブイを投げておこう」  樋口はすぐに走って、収納箱からオレンジ色の救命ブイを二つ持ってきて、海へ投げ捨てた。広い海上では、こうして救命ブイを目印に残しておくことが緊急かつ必要な作業なのだ。その場合、最も目立ちやすい色として、『しーふらわー』ではオレンジ色を採用していた。  堀ノ内は船内電話で船長に報告した。大杉《おおすぎ》船長は仮眠中だったが、報告を聴くと、落ち着いた声で「とりあえず停船するように」と指令した。大杉は帝国海軍の幹部候補生あがりで、肝っ玉のすわった男だ。まもなく船橋《ブリツジ》に現われた大杉は、きちんと制服を着込んでいた。そういう迅速ぶりも海軍仕込みということなのだろう。  大杉は海図上で現在の位置を確認すると、無線で下田海上保安部に連絡を取り、巡視船の出動を要請するとともに、「本船も反転、現場海域の探索に当たる」旨《むね》、伝達した。  そうした処置をとってから、あらためて情況の詳細について堀ノ内に質《ただ》した。 「転落したことはまちがいないか」 「まちがいないと思います」 「目撃はしていないのだな」 「はい、しかし、悲鳴があがったのは、自分がそのお客さんと出会ったあたりですし、悲鳴を聴いてすぐ飛び出したのに、すでに人影はありませんでした。それから、悲鳴が海に向かって落ちていったことはまちがいありません」 「そうか……」  大杉は口をへの字に結び、意志の強い眸《ひとみ》で天井を睨《にら》んだ。ふだんは気のいいオッチャンといった風貌《ふうぼう》だけれど、台風接近や濃霧発生などに遭遇したときには、別人のような迫力を示す。 「よし、総員配置につき、捜索にかかる」  大杉は短く、早口に言った。 『しーふらわー』は一八〇度転回し、海図上の航路を正確に辿《たど》りつつ、微速前進を開始した。女性を除く乗組員全員が叩き起こされ、両舷デッキに配置されて、サーチライトに照らし出される海上に探索の眼を走らせる。  現場は伊豆《いず》半島南沖に浮かぶ神子元島から西南西に一〇キロばかり離れた海域で、この辺は黒潮が幾条にも岐《わか》れて流れ込み、複雑な潮流をつくっているところだ。転落した位置《ポイント》のちょっとした差で、行きつく先がとんでもない方向になってしまうから、救助作業は難航することが予測された。  捜索を始めて約一時間後に、救命ブイのひとつが発見された。二個をほとんど同時に投下しているにもかかわらず、もう一個がすでに遠く離れてしまった、というあたりに、この海域の難しさが象徴されている。  一時三七分、巡視船『するが』が現場に到着、『しーふらわー』と連携しながらの捜索を始めた。到着までの間に、�転落�時の状況についての一問一答が交信されている。回答には堀ノ内が当たった。いちばん問題なのは�転落�が自殺によるものか、事故によるものか、という点だ。覚悟の自殺という場合には懐中などに重しを入れていることもあって、海面下に沈んでいる可能性が強い。 「自殺とは考えられません」と堀ノ内は断定的に言った。酔って上機嫌だった様子に自殺を想像させる印象はまったくなかった。また、酔っ払い——というところから、事故の可能性が強いと考えられるのだ。 「しかし、保護が必要であると考えるほどの泥酔《でいすい》状態ではありませんでした」  その点も堀ノ内は強調しておいた。保護を要するような客を放置したとあっては、責任問題につながりかねないし、そのことは確かな事実でもあった。 「それならば、なぜ転落したのか」と訊《き》かれて、堀ノ内は「さあ」と考え込んだ。  手摺りの高さは一二〇センチ、ふつうの大人の胸の高さである。それを越えて転落するというのは、通常の状況では考えられない。手摺りに両手をかけ、鉄棒よろしく「えい」とばかりに腹のところまでせり上がりでもして、バランスをくずし、頭、上半身が外側に倒れ込み、うっかり手を放した……、というような場合にのみ�事故�になるが、それ以外は故意——つまり自殺か、あるいは殺人かということになるだろう。おそらくあの客は、そのばかげた器械体操の真似《まね》でもやったに違いない。「——そうとしか考えられません」と、堀ノ内は報告を結んだ。  二時一〇分、『しーふらわー』は捜索を『するが』に委《ゆだ》ねて、現場を離脱、航行コースに戻った。約二時間の遅れ。乗客の多くは行く先々に予定を持っているのだから、いつまでも現場にとどまっているわけにもいかない。大杉は船足《ピツチ》をほぼ目いっぱいの二六ノットまで上げ、いくらかでも遅延時間を縮めようとした。  直接業務に関係のない職員はベッドに戻り、関係者だけで善後策を話し合った。 �転落者�が何者であるか——という点は現在もなお不明だ。事故のことは乗客には一切、報《し》らせていない。乗客の誰かが転落したことだけは確かだけれど、さりとて、千人近い乗客を叩き起こして、その人物を洗い出すというわけにもいかないのだ。しかしその直後、�転落者�の身元が判明した。インフォメーションに、特等室の客から申し出があったと連絡してきたのである。  客は12号室に入っている夫婦者で、乗客名簿には『稲田|教由《のりよし》(三八歳)、萌子(二八歳)』と記載されている。その女性客の方が「主人が部屋へ戻らないので心配しているのですが……」と、インフォメーションの当直員に申し出た。  大杉船長、堀ノ内航海士、それに事務長の石田の三人で事情を聴くことになった。ラウンジの大きなソファーで三人を迎えた稲田萌子は、不安と眠気のない交《ま》ざった顔で物憂げに立ち上がった。すっかり化粧を落としているけれど、目鼻立ちのはっきりした、まず美人の部類に入りそうな女だ。これでちゃんと化粧をすれば、なまじなモデルよりましだろう、と、堀ノ内はすばやく観察した。ただ、彼女が時折、無意識に見せる、少し首をかしげるようにして目の裾の方で相手の顔をとらえる仕草は水商売のにおいを感じさせる。 「ご主人がお部屋を出られたのは何時頃でしょうか」  大杉は椅子《いす》に座りながら、単刀直入に訊いた。 「はっきり時計を見たわけではありませんけど、十一時過ぎだったと思います」 「どこへ行くとか、おっしゃっていませんでしたか」 「ええ、あの、ちょっと酔いをさましてくるって言ってました」 「だいぶ、お飲みになっておられたのですか」 「ボトル三分の一ぐらいかしら、主人はそんなに強い方ではないんですけど、久しぶりに故郷《くに》へ帰るのが嬉《うれ》しかったせいか、いつもより多めに飲んで、それで、なんだか暑くてしようがないって……」 「では、甲板《デツキ》に出られた可能性がありますね」 「そうかもしれません」 「ご主人の特徴は何かありませんか、身長とか、お召物とか……」 「べつに、特徴といっても、中肉中背で、Vネックのセーターを着てますけど……」  堀ノ内はすばやく大杉に目くばせした。大杉は沈痛な顔で相手を見ながら、言った。 「じつは、まだはっきりしたことは申し上げられませんが、三時間ほど前、本船から海へ転落した方がおられるのです」 「…………」  稲田萌子はポカンとした顔で大杉を眺めていた。 「いえ、もちろんその人がご主人だと断定できるわけではありませんが、いまお聞きしたご様子が、ここにいる堀ノ内君の目撃した転落者とたいへん似かよったところがありますので、万一ということをお考えいただいた方が……」  とつぜん、萌子は立ち上がった。 「そんな、主人が落ちたなんて、そんな……、だったら、どうして救《たす》けないんです。何をのんびりしてるんです……」  目は吊《つ》り上がり、躰が瘧《おこり》のように震えていた。     4 『しーふらわー』は定刻より約二時間遅れて、午前九時三〇分、那智勝浦に入港した。朝からの船内放送は、事故のため遅延することを告げ、お詫《わ》びするという内容のコメントをくり返している。那智勝浦では南紀|白浜《しらはま》や伊勢|志摩《しま》、鳥羽《とば》方面へ向かう客がかなり下船する。乗組員は総出で下船客のチェックに当たった。通常は乗船カードの確認だけで済ますのだが、事故発生時の特例で、乗客名簿をひとりずつ照合することになった。そのためのアイウエオ順の一覧表を徹夜で用意してある。それでも作業に手間がかかり、ただでさえイライラしている乗客から不満の声があがった。  堀ノ内は自動車で下船する客のチェックに当たっていた。乗用車三十二台、トラック五台がここで降りた。チェック作業の過程でちょっとしたトラブルがあった。乗用車の客が、名前を訊ねると「トーヤマです」と名乗ったのに、堀ノ内は名簿上に『遠山』の名を発見できない。「失礼ですが、別のお名前で乗船登録されたのでは?」と訊いて、怒鳴られた。じつは「トーヤマ」は『当山』と書くのであって、名簿表を作った者が「アテヤマ」と誤読したためのミスであった。そこで五、六分空費したが、自動車客の方は数も少なく、順調に作業は完了した。  相変わらず抜けるような五月晴れで、海の色も山の緑もあざやかだ。妙な事件さえなければ絶好の旅行|日和《びより》に違いない。船を出た車や人波は、色とりどりのモザイクを散らしたように埠頭《ふとう》を去っていった。  出港まぎわになって、串本《くしもと》の海上保安部から係官が乗船してきた。一応、関係者の事情聴取をしたい、という。転落現場の写真を撮影してから、稲田萌子に会った。  萌子はずっと12号室に引き籠《こも》ったまま、一歩も外に出ようとしなかった。食事は事務長の石田が気をきかせて部屋へ運んだが、口にする気配はなかった。職員の対応が適切であったならば、主人は助かったのだ、と思い込み、そのことを憤っていた。悲しみよりも憤りの方が勝っているせいか、ほとんど涙を見せない。係官に対しても、頻《しき》りに職員の怠慢を訴えつづけ、事情聴取にもならないような有様だった。  しまいに、係官の方が堪《たま》りかねて、「あなたはそう言うが、この事故で大迷惑を蒙《こうむ》っているのは他の乗客と、船会社側なのですぞ」と窘《たしな》めた。萌子は黙りこくり、横で見ていた堀ノ内は胸のつかえがスッと落ちた。実際、捜索活動で空費した燃料費だけでもばかにならない。なにしろ、一万三〇〇〇トンの巨体を動かすのだ。そういう経費のツケを持っていくところがないし、職員は徹夜でクタクタの体に鞭《むち》うって仕事を続けなければならない。まったく、泣きたいのはこっちの方だ……と声を大にして言いたかった。  係官はいろいろな角度から萌子に質問を重ねたが、質問の意図するところは、要するに稲田教由の�事故�に自殺の可能性があるかないかを確定したいことにあるらしかった。萌子は言葉を選ぶ慎重な話し方で丁寧に答えていた。先刻の理不尽な激高を反省している様子が見られた。  稲田夫妻にとって、今回の旅行は時期の遅れた新婚旅行《ハネムーン》という主旨のものだったらしい。稲田教由、萌子は二年前の夏に結婚している。 「主人の故郷《くに》が高知県で、ぜひ一度、生まれた村を見せたいと言ってたんです。主人自身、二十年も前に故郷を出たきり、ほんとうに久しぶりの帰郷だったのに……」  萌子はハンカチで顔を蔽《おお》った。楽しみにしていた帰郷を目前に、主人が自殺するわけがないでしょう、と強調するのだった。もちろん遺書の類いもなく、自殺を匂わせる要素は何ひとつ発見されなかった。 『しーふらわー』の遅れは二時間三〇分とさらに広がり、一〇時四〇分、那智勝浦を出港した。この時点に至るも�転落者�救出の報は入電していない。生存はおろか、遺体発見の可能性も薄れつつある、と堀ノ内は思った。 「次の交代まで、きみは仮眠しろ」  大杉船長は堀ノ内にそう指示して、自ら操舵室に入った。正直なところ、大杉自身、疲れているのだが、そういう際だからこそ、自分が率先しないではいられないというところが、いかにも大杉らしい。それが分かるだけに、堀ノ内は心底、嬉しかった。 『しーふらわー』は快調に船足を伸ばし、いくぶん遅れを取り戻して、午後五時四〇分、高知港に接岸した。高知港でも入念な下船客のチェックが行なわれたが不審はなく、乗客の一名が消滅していることは確定的な事実となった。  稲田萌子は乗客の最後に、船長以下、幹部職員に見送られて船を離れていった。「ご主人の里へいらっしゃるのですか」という大杉の質問には、力なく首を横に振った。 「このまま寄らずに、飛行機で帰ります」 「ご主人はまだ亡くなられたと決まったわけではありませんから、お気を落とさないでください」 「ありがとうございます。でも、そのことはもう諦《あきら》めがついていますから……」  その時、�未亡人�の横顔に微かな笑みが浮かぶのを、堀ノ内は理解しがたい想いで眺めていた。  稲田教由の生存はもちろん、遺体を確認することも、ついにできなかった。下田海上保安部は五月三日付で「生存は絶望」である旨を発表し、捜索を打ち切っている。  事故から一週間、ゴールデンウィークは慌ただしく過ぎ去った。五月八日、東京泊まりとなった堀ノ内が、常宿にしている晴海《はるみ》のホテルにチェック・インすると、フロントが顔を見るなり、「堀ノ内様にお会いしたいという方がお待ちですが」と言った。指先をたどると、ロビーの椅子から男が起《た》ちあがって、こっちに会釈を送っている。見知らぬ顔であった。近寄ると慇懃《いんぎん》に礼を重ね、「堀ノ内様ですね、とつぜんお邪魔いたしまして、申しわけありません、会社の方へご連絡いたしましたところ、こちらにお泊まりということでございましたので」。いやみなほど、丁寧な言葉遣いをして、名刺を差し出した。 『T生命保険相互会社 調査部主事 三田村博《みたむらひろし》』とある。 「僕は生命保険はいくつも入っていますから……」  言いかける堀ノ内を制して、「いえ、勧誘ではございません」と苦笑した。 「じつは、稲田教由さんの転落事故について、堀ノ内様からお話をお聴かせいただきたいと存じまして」 「稲田さんの事故?……」 「はい、さようです。五月二日の事故のことですが、あの時、事故現場の最も近くにおられたのは堀ノ内様だとお聴きしました」 「ええ、それは確かにその通りですが……」 「それで、御社の方にはすでにご了解をいただいておりますが、その時の情況について、詳しいお話をお聴かせいただきたいのです」 「それでしたら、海上保安部の方へ行かれた方が早いんじゃありませんか、僕の知ってることは全部、話してありますし、むこうでもいろいろ調べているんでしょうから」 「はい、もちろん、そちらの方へも参りました。その上で、さらに堀ノ内様から直接、細かい点について確認させていただきたいと存じまして」 「細かい点といいましてもねえ……」  ふと、不審に思って、「あの、何かあの事故に、問題点があるのですか」と訊いた。三田村は少し逡巡《しゆんじゆん》を見せてから、声の調子《トーン》を落として、言った。 「じつは、稲田さんは、奥さんを受取人に指定して、五千万円の保険に加入しておいでなのです」 「はあ……」  堀ノ内は頷《うなず》いた。「しかし、いまどき、大抵の人は保険ぐらい入っているでしょう。僕だって、三口も入らされていますよ」 「はい、その通りです。しかし、稲田さんの場合、手前どものほか、三社と、合計一億八千万円にのぼる契約をなさっているのです」 「一億八千万……」 「はい、これはいささか多過ぎる額でして。いえ、つまりその、こういうことを申してはなんですが、稲田さんのお宅のご収入に対しては、掛金の額が多過ぎるというわけです」 「どのくらいなんです、その掛金は」 「月々、約十三万円になります」 「十三万円ねえ……、確かに多いことは多いけれど、金持ちなら払えないって額でもないんじゃないですか?」 「稲田さんはそれほどご裕福なお宅とはお見受けいたしかねるのでして」 「仕事は何をしていたんですか」 「ご主人の方は一応、文筆業ということになっておりますが、実質的には無職です」 「無職?……」  堀ノ内はあっけにとられた。「しかし、それじゃ、収入はどうやって……」 「奥さんがクラブのホステスをなさっております。こちらの方はかなりの収入ではあったようです」 「なるほど、すると、ちょっとしたヒモ的生活だったわけですね」  言ってしまってから、堀ノ内は首を竦《すく》めた。仮にも、�お客様�だった人を悪《あ》しざまに言ったのは失言だ。三田村はその様子を見て、屈託なく笑った。 「おっしゃる通りです。結婚されて二年ほどのあいだ、定職を持たれたことはなかったそうですから。いや、奥さんの口ぶりでは、ご結婚なさる以前のご職業もあいまいだったようなのです」 「はあ……、そんな人でも、ああいう美人の奥さんに惚れられるんですか、不公平なもんですねえ」  堀ノ内の慨嘆に、三田村はしかし、笑うどころか、かえって表情を引き緊《し》めた。 「われわれもその点に関心を抱《いだ》きました。正直申し上げて、どう見てもお似合いのカップルとは思えません。しかも、ご結婚後まもなくから昨年暮までにかけて、個別に六回にわたって保険契約を行なっているのです」 「ちょっと待ってください」  堀ノ内は手を上げて話を中断させた。 「その辺のことはともかく、三田村さんはいったい、何をおっしゃりたいのですか」 「つまり、その、これはあくまで手続上の問題というふうにご理解いただきたいのですが、稲田さんの事故に何か不審な点はなかったかについて、一応、はっきりさせたいということなのです」 「と言われるのは、逆に、不審な点がある、というように考えているのですね」 「いえ、そのようには申し上げておりません。あくまでも、問題点をクリアにするのが、私の仕事でありまして……」 「僕はどうも回りくどいことは苦手なので、単刀直入にうかがうのですが、要するに、稲田さんの事故に関して、たとえば、自殺とか、殺されたとか、そういう事件がからんでいた疑いがないかどうか、そのことをお訊きになりたいのでしょう?」 「端的に申し上げると、そういうことです」 「それでしたら、僕には正直なところ、分からないと言うしかありません。ただ、事実だけをお話しすると、あの時の稲田さんから受けた印象では自殺を感じさせるものはなかったですし、誰かと争うような気配もなかったので、当然、事故で落ちたとしか考えられなかったというわけです」 「なるほど、なるほど、よく分かります」  三田村は大きく頷いた。 「しかし、なお念のためにお訊きしますが、稲田さんが転落したというのは、これは間違いのない事実なのでしょうねえ」 「は?……」  質問の意味が理解できず、堀ノ内はポカンとした顔を相手に向けた。 「つまりその、稲田さんは本当に亡くなられたのでしょうか、ということですが」 「それは、遺体が確認されていない以上、断言はできませんが、あの辺《あた》りへ落ちて、いまだに発見されていないとすれば、まず助かりっこないんじゃありませんか」 「ですから、落ちたかどうか、その点を念のためにお訊きしているわけです」  堀ノ内はいよいよ呆《あき》れ返った。 「じゃあ、落ちたかどうかというところから問題にしようというのですか」 「そのとおりです」  三田村はケロッとしている。 「ご承知かと存じますが、先頃、愛媛県で遊泳中の男の人が行方不明になりまして、警察で死亡と認定された結果、五千万円ほどの保険金が支払われた後《のち》に、その本人が大阪市内で発見されるという、保険金詐取事件がありました。そのほかにも、生命保険をめぐる犯罪が急増しておりまして、われわれといたしましては神経をとがらせないわけにはまいりません。念には念を入れて事故の状況を確認せよ、というのは私どもの会社ばかりでなく、生保業界全体の意向なのです」 「なるほど、それは分かりましたが、しかし、僕がそれを証明するにはどうしたらいいんです?」 「まずですね、堀ノ内さんは稲田さんの悲鳴をお聞きになったそうですが、その悲鳴は、間違いなく、転落してゆくような感じに聞き取れたのでしょうか」 「だと思いますよ。つまり大きさと方向性の問題ですけど、明らかに甲板《デツキ》上から海面へ向かって落ちていった角度と遠近感が感じられましたからね」 「そうですか……、では、落ちたということについては間違いないものとして、何者かによって突き落とされた、という可能性についてはいかがでしょう」 「それはあり得ないと思いますよ」  堀ノ内は言下に答えた。 「僕が悲鳴を聞いてから甲板へ飛び出すまでは、ほんの一瞬ですからね。その間に、突き落とした犯人が姿を消せるとは考えられません」 「しかし、甲板から船内への入口は、もう一箇所あるのではありませんか? そこから逃走したとは考えられませんか」 「いや、あの位置からでは、絶対に不可能ですよ」  堀ノ内は手帳を取り出し、そこに問題の場所の略図を描いた。 「つまり、この位置から階段入口まで、どんなに早く走っても、悲鳴があがってから四、五秒はかかるでしょう。そんな人影はもちろん、足音だってしませんでしたからね。それに、いくら酔っていたからって、犯人に抱きあげられ、突き落とされるのをおとなしくしているなんてことは、あり得ないでしょう」  三田村は略図を手にしたまま、しばらく考え込んだあげく、憂鬱《ゆううつ》そうに首を振りながら起《た》ちあがった。 「いや、よく分かりました。たいへん参考になりました。お疲れのところ、ありがとうございました」  最初の印象とは異なる、至極あっさりした口調で礼を言うと、さっさと引き揚げていった。 第二章 破綻《はたん》への序章     1 �高田馬場《たかだのばば》コーポラス�は『高田馬場』を冠しているが、実際の地番は新宿区|下落合《しもおちあい》一丁目——である。神田川の畔《ほと》りに建つ十二階建てマンションだ。神田川も、下流の早稲田《わせだ》から江戸川橋あたりにかけては、多少は風情《ふぜい》らしいものもあるけれど、この付近は両岸も川床もコンクリートで固めた、巨大な�U字溝�でしかない。おまけに、許容流量の計算に見込み違いがあったとかで、大雨のつど、あっけなく溢水《いつすい》し、周辺の民家や商店に被害を及ぼす、という代物だ。そのせいか、川岸の建物はすべてこの川に背を向けている。そのことが、いよいよ川筋の風景を潤《うるお》いのないものにしていた。  三月十五日午前一〇時頃——、神田川を渡る、通称『染屋橋』の真ん中で二人の女が立ち話をしていた。正確にいうと、一方の女がもう一人の女に高田馬場駅へ抜ける道を尋ねていたのである。尋ねられた側の女は�高田馬場コーポラス�の管理人の妻で、もちろん地理には詳しい。懇切に道順を教え、「分かりましたか」と念を押した時、相手の様子がただならぬことに気付いた。 「あ、あ、あの人、危なっかしい……」  眉《まゆ》をひそめ、大きく口を開けて、はるか天空に向けて目を瞠《みは》っている。 「あっ……、落ちる!……」  叫び声に、管理人の妻も思わず振り返って、相手の視線の方角を見上げた。  高田馬場コーポラスの壁面を人間が落下していた。頭を下に向け、両腕は左右に開き、足を揃えた姿勢で、むしろゆっくりしたスピードに感じるほどの時間をかけて、落ちた。  丸太を泥沼に投げ込んだような、鈍く、不快な音が響いた。瞬間、ふたりの女は申し合わせたように目をつぶり、顔を背《そむ》けた。全身が硬直し、腰から下に力が入らない。思わずしゃがみ込みたくなるのを、橋の欄干に手をついてかろうじて支えていた。  自転車で通りかかった男に「何かあったのですか」と声をかけられ、管理人の妻が必死の想いで事情を説明した。男が三〇メートルばかり離れた�落下地点�を覗き込むと、確かに、マンションと川岸とのあいだの僅《わず》かな空地に人間らしいものが倒れている。 「死んでるのかな」  ピクリとも動かない物体を見て、男は不安そうに言った。近づいて確かめる気にはなれない。 「早く、警察へ……」  管理人の妻に促され、周章《あわ》てて走って行った。マンションを通り過ぎて一〇〇メートルほどの角に公衆電話が見える。 「ウチのを使えばいいのに……」  管理人の妻はじれったそうに言ったが、さりとて、自らそうする気力はなかった。  公衆電話は塞《ふさ》がっていた。若い女がボックスの中にいて、しきりにダイアルを回している。男はドアを開け、「一一〇番したいんだ、どいてくれ!」と怒鳴った。その剣幕にはじき出されたように、女はボックスを男に譲った。男は生まれて初めて、赤い緊急用送信器で一一〇番をダイアルした。  ——はい、こちら一一〇番です。  はっきりした口調が飛び出した。 「あの、人が落ちたんです、ビル、いや、マンションから……」  男は自分でももどかしいほど、舌がもつれた。  ——マンションから人が落ちたのですね、分かりました。まず、その場所を言ってください。住所はどこですか? 「下落合一丁目の、番地は分かりませんが、神田川の岸で、橋の近くです」  ——新宿区下落合一丁目、番地は不明、神田川の岸で、橋の近くですね。マンションの名前は分かりますか? 「たしか、高田馬場コーポラスです」  ——高田馬場コーポラスですね。橋の名前は分かりますか? 「さあ、分かりません」  ——橋の名は不明。落ちたのは何階からですか? 「私は落ちるところは見てませんが、相当上の方からみたいですよ」  ——と言うと、他に目撃者がいるのですね? 「女の人が二人、橋の上から見ていたそうです」  ——女の人が二人、目撃していた。落ちた人の怪我《けが》の状態は分かりますか? 「分かりません。遠くから見ただけですからね。しかし、下はコンクリートだし、まず助からないんじゃないですか、ピクリともしませんから」  ——怪我の状態は不明。ほぼ死亡状態にある模様。その人の性別と、いくつぐらいかは分かりませんか? 「たぶん男の人だと思いますが、年齢なんかは分かりません」  ——男性で、年齢は不明。あなたのお名前と住所を教えてください。 「そんなことより……」  男は焦《じ》れて、荒い声を出した。「早く来てくれないと、助かるものも助からなくなっちゃいますよ」  ——大丈夫ですよ、すでにパトカーと救急車がそちらへ向かっています。もうそろそろ到着する頃でしょう。  その言葉を裏書きするように、サイレンの音が近づいてきた。  男が電話ボックスを出ると、若い女が青い顔をして待ちうけていた。 「あの、そこのマンションから人が落ちたのですか?」 「ええ、落ちましたよ」 「自殺でしょうか?」 「さあ、どうですかねえ」  言いながら、男は女のただならぬ様子に不審を感じた。 「何か、心当たりでもあるんですか?」 「ええ、あの、もしかしたら、あたしの知ってる人じゃないか、と……。先刻《さつき》、電話したら、なんだか、自殺するようなこと、口走ったんです」  その時、パトカーが到着して警官が走ってきた。 「あんた、いま一一〇番した長谷川さんですか?」 「そうです」  男は答えた。 「転落事故があったのは、このマンションですね」 「そうですよ、落ちたのは向こうのはずれの方で、あそこの橋の上にいる女の人二人が目撃したそうです」 「分かりました。おそれ入りますが、一緒にきていただけますか」 「いいですよ。あ、それから、この女《ひと》、落ちた人のことを知ってるそうです」  女は「困るわ」と尻込みした。 「そうですか、それじゃ、あなたも一緒にきてください」  警官は、うむを言わせない口調で言い、走っていった。  応援のパトカーがつぎつぎに到着し、救急車もやってきた。立ち入り禁止のロープが張られた頃になって、私服の捜査員たちがどんどん増える。  実況検分の指揮は戸塚署刑事課長・橋本《はしもと》警部が執《と》っていた。  すでに、救急隊員によって転落者の死亡が確認されている。捜査員たちは転落現場の周囲に天幕シートを張って、野次馬の視線を遮蔽《しやへい》した。  検視官の資格を持つ橋本と医師が遺体を調べた。  死んだのは中年の男で、ひと目で即死と分かる状態だった。  頭部の天頂から後頭部にかけて挫傷《ざしよう》があり、頸骨《けいこつ》が折れ、眼球が飛び出している。衣服の上からでは判断できないが、全身の異様なねじれぐあいから見て、打撲と複雑骨折は全身に及んでいることは間違いない。  外傷部分や鼻、口、耳からも出血しており、いずれにも明らかな生活反応がある。転落が直接の死因であることに疑う余地はない。  橋本は死者のズボンを裂き、肛門《こうもん》に体温計を差し込んだ。あまりスマートな方法ではないが、彼はこのやり方に決めている。体温は三十一度を示した。死後、それほど時間が経過していないことが分かる。  事件関係者は全員、高田馬場コーポラスの管理人室に確保してあった。橋本はその中から管理人の細君にきてもらい、遺体の身元を確認してもらった。両腕を警察官に把《と》られ、こわごわ近づいた細君は、橋本がシートをめくったとたん、「ひゃー」と言って腰を抜かした。  死亡したのは、このマンションの十二階、一二〇一号室に住む当山林太郎(四〇歳)と分かった。  当山は独身で、昨年の五月、マンションが完成するのと同時に入居している。  職業は喫茶店経営。早稲田大学の近くに『藤ノ川』というコーヒー専門の小さな店をもっていて、店員も置かず、気儘《きまま》な商売をしているらしい。 「客商売の割には愛想のない人で、あまり笑った顔も見せませんでしたわねえ」  管理人の細君、浅田登紀子《あさだときこ》はそう言っている。管理人の浅田|武司《たけし》(四八歳)は登紀子(四四歳)との二人暮らしで、子供はない。この日、武司は外出中で、登紀子からの連絡を受け急いで戻ってきた。  浅田の案内で、捜査員たちは一二〇一号室へ向かった。  当山の部屋のドアはロックされていた。鑑識の指紋検出作業を待って、浅田が鍵を開けた。 「その鍵は管理人室に保管されているのですな」  捜査員が訊いた。 「そうです」 「ほかに、鍵は何個あるのです?」 「二個です。二個とも居住者に渡してあります。複製を防止するために電子ロックにしてありますから、その三個以外にはありません」  まず鑑識の連中だけが入室した。足跡、指紋の検出にかなり手間取りそうだ。橋本課長は係長以下に現場保存を命じて、ひとまず管理人室へ戻った。  管理人夫妻を除く三人の関係者は、いつまで留め置かれるのか、不満を訴えていた。 「当山さんが転落するところを目撃したのはどなたですかな」  橋本は全員の顔を見渡した。 「私です。そこの橋のところで、こちらの奥さんに道を尋ねている時、転落したのです」 「ええと、あなたの名前は?」 「多岐川萌子です」 「住所を教えてください」 「港区南青山——」  住所、電話番号を控えると、目撃した時の状況を詳しく尋ねた。 「道を尋ねていましたら、マンションの一番上の窓から男の人が乗り出してくるのが見えたんです。それで、危ないなあって思って、見てたら、とつぜん、スーッと落ちてきたもんで、もう、びっくりして……」 「頭から落ちてきたんですね」 「ええ、頭から突っ込むような恰好でした」  ねえ、と、管理人夫人の同意を求めた。 「私が見た時は、もう、八階あたりまで落ちてきてたところでしたけど、真っ逆様でした」 「悲鳴は聴こえませんでしたか」 「ええ、聴こえなかったみたいです」  多岐川萌子が答えた。 「もっとも、私たちが悲鳴をあげちゃったので、聴きとれなかったのかもしれませんけど」  つぎに、橋本は一一〇番をかけた長谷川に向かった。長谷川は近くの木工所に勤務する三十五歳の、ごく平凡な感じの男だ。 「あなたも転落の瞬間を見たのですか」 「いえ、私は少しあとに、橋のところを通りかかったのです。そこに、こちらのお二人が、なんか、腰を抜かしそうな変な恰好をしていたもんで、『どうしたんですか』って、声をかけたんです」  それから電話をかけるまでのいきさつを述べた。そして、最後に残った若い女から重大な証言が飛び出した。  女は友杉範子《ともすぎのりこ》といい、新宿のクラブに勤める、二十五歳になるホステスだ。 「あたし、当山さんのところへ電話したんです。そしたらあの人、気が変になったみたいな声で、『俺《おれ》は死ぬ!』って言って、電話を切っちゃったんです」  橋本は、いきなり核心に迫る話を聴かされて、驚いた。 「それは、いつのことですか」 「いつって、ですから、あれが起こる直前ですわ」 「直前というと、どのくらい前ですか、何時間とか、何分とか……」 「そんなに長くないわ。その電話が切れて、あたしが気になって、何回もダイアルを回しているところに、こちらの男の方がやってきて一一〇番したんですから」 「えっ? すると、あなたは、そこの公衆電話から電話をかけていたの?」 「ええ、そうよ」 「どうして電話なんか……、すぐそこなんだから、直接、訪ねていった方が早いんじゃないですか」 「もちろん行きましたわ。行きましたけど、当山さん、いくらノックしても応答がないんですよね。約束してたはずなのに変だなって思って、郵便受のところから覗《のぞ》くと、どうも居留守をつかってるみたいなもんで、頭にきて、しつこく電話してやったんです」  友杉範子は、当の相手が死んだことを、一瞬、忘れでもしたかのように、勝ち気そうに険しい目付きをした。 「すると、あなたが行った時、当山さんの部屋には鍵がかかっていたのですね」 「決まってるじゃありませんか。開いてれば、中に入ってますもの」 「あなたは鍵を持っていないのですか」 「ええ、でも、どうしてですの?」 「だって、あなたは当山さんの恋人なんでしょう?」 「やだあ、そういう意味? 冗談じゃないわ。そりゃ、商売ですからね、ぜんぜんそういうことがないって言えば嘘《うそ》になるけど、そんな関係じゃありません。今日の目的は集金。当山さん、少しお勘定が溜《た》まってるんですよね。それで、催促したら、取りにこいって言うから。それも、十時半過ぎたら出ちゃうからって。コーヒー屋さん、十一時に開店するのだそうよ。でも、お店の方にはぜったい来るなっていうの。お前らみたいなのに出入りされたら、店の雰囲気が落ちるって、失礼なこと言ってたのよ」  集金がフイになったせいか、友杉範子は、ヤケッパチのように、よく喋《しやべ》った。 「当山さんが集金にくるように、と言ったのは、いつですか」 「一昨日《おととい》、お店にきた時、そう言ったんですよね」 「その時の様子で、何か、自殺を予感させるようなものはありましたか」 「いいえ、別に。当山さんて、いつも、少し陰気なくらいな人で、その時も同じ調子だったけど、自殺するなんて感じじゃなかったと思うわ」  それ以上、いま訊《き》いておくことはなかった。三人の証言者には、とりあえず引き取ってもらい、橋本はふたたび十二階へ向かった。  部下の手で室内の検分が進められていた。  玄関ドアの前には二人の巡査が立ち番をして、住人の好奇の眼や報道関係の連中の侵入を遮《さえぎ》っている。 「課長、この部屋は密室状態ですな」  捜査係長の三谷は、橋本の顔を見るなり、言った。 「問題の鍵ですが、二つとも室内にありました。ひとつはそこのサイドボードの抽出《ひきだ》し。もうひとつは、この上衣《うわぎ》のポケットの中です」  三谷はソファーの上に脱ぎ捨てられた形になっている上衣のポケットをまさぐり、鍵を取り出してみせた。 「それと、ホトケさんはどうやらLSDを服《や》ってたようです。テーブルの上に、ごく少量のLSDらしい薬物があったそうです。鑑識さんが採取していきました」 「そうか。すると、やはり自殺だな。下で、事情聴取したんだが、外から電話した女が、当山さんの『俺は死ぬ』という声を聴いたのだそうだ」 「じゃあ、錯乱《さくらん》して飛び下りたってとこですか。遺書の類いはありませんから」 「外部からの侵入者があった形跡はないのかね」 「現在までのところ、ありません。部屋はこのリビングと六畳の和室と四畳半の洋室で、玄関のほか、ドアは、リビングと和室からベランダへ出るガラス戸がありますが、いずれも二重ロック式になっていて、全部施錠されていました。窓はキッチンの廊下側に小窓があるのと、この窓だけです。キッチンの窓は鉄格子が嵌《は》まっています。開いていたのは、ホトケさんが落っこった、この窓だけということになります」  窓は下端が床からの高さ一メートル一〇センチの、比較的小さなものだ。両開きの窓の片側の幅は六〇センチ、人間の肩幅がやっと通る程度で、過《あやま》って落ちるということは、まず考えられないから、目撃者の話を考え合わせると、自ら飛び込んだか、背後から突き落とされたか、という以外はない。  橋本は窓から首を突き出して上下左右を見回した。安全は承知していても、十二階の高さは、いささか気持ちが悪い。 「この窓の上はどうなってるんだ」 「この上は屋上ですが、危険防止のため、出入口に鍵をかけてあるそうです」 「その鍵だがね、管理人室に置いてあったスペアキーを使うチャンスはなかったのかな」  しかし、管理人の細君に確認した結果、その可能性のないことが分かった。細君は近くまで買物に出かけたのだが、その際、室に鍵をかけて出ていたし、保管庫そのものにも数字合わせ式の南京錠《ナンキンじよう》がかけてあった。  三谷係長が言ったとおり、当山の部屋は密室と断定するしかなかった。 「自殺だな、まず」  橋本刑事課長は、肩の荷を下ろしたように宣告した。  事件を報じるテレビニュースを、堀ノ内は晴海《はるみ》のホテルの部屋で見ている。 (見たような顔だな——)と、まず思った。そして、「当山林太郎(40)」という字幕《テロツプ》と、アナウンスを見聞きした瞬間、二年前の五月二日、那智勝浦《なちかつうら》港での出来事が脳裡《のうり》に蘇《よみがえ》った。  あの男が、死んだ……。  ある種の感慨が湧《わ》いてくる。はかないものだ、と思う。 「……警察では、単なる事故死か、あるいは自殺の可能性が強いと見て、裏付けのための捜査を進めております」  ニュースは次の話題に移った。それだけのことで、とりたてて驚くほどの出来事ではない。東京というマンモス都市ではありふれた事件のひとつだろう。  だが、堀ノ内は、妙にこだわるものを感じた。意識が、いま見聞きしたニュースから離れない。  那智勝浦で、乗客リストの照合に手間取った時に見せた、当山という男の射《い》るような視線と、油断のならない面構えを思い出す。それは、内面の強靭《きようじん》さをそのまま面《おもて》に現わしたような迫力を感じさせた。 (あの男が、自殺なんかするものか——)  確信に近く、堀ノ内は思った。  それからしばらくのあいだ、その事件のことが気にかかった。東京と高知を往復しながらのことだから、二日に一度か三日に一度の割で、東京のニュースに触れることができる。注意して新聞紙面を見、テレビのニュースを観るが、その後、事件が新たな進展を見せた気配はなかった。どうやら、警察は、当初の見解どおり、自殺ということで片付けるらしい。  しかし、堀ノ内の疑惑は沈静するどころか、むしろ、いらいらが募《つの》る一方だった。  樋口久美との結婚が近づき、準備やら打ち合わせやらで、気が紛れている内はいいが、ふとした折に、そのことが頭をかすめる。 (あいつに話してみるか——)  堀ノ内は、浅見光彦《あさみみつひこ》のことを思った。  浅見とは、かれこれ五年ぶりの再会になる。いつでも会える気でいて、歳月はあっけなく流れた。結婚式の招待状を送ったら、出席の通知を返送して寄越したのはいいが、印刷した葉書の一端に「この野郎」と、殴り書きされてあった。 (相変わらずだな——)と、堀ノ内は安心した。週刊誌などで、浅見が探偵として活躍している様子を知り、もう別の世界の人間かな、と、一抹《いちまつ》の不安を抱きながら通知を出したのだった。  浅見なら、何か発見するかもしれない——。  浅見の、いかにも聡明そうな風貌《ふうぼう》を思い浮かべて、堀ノ内は、急に気持ちの落ち着きを取り戻した。     2  家の門を一歩、出たところで、浅見光彦は早くも後悔の念にとらわれてしまった。  どう考えたって、さまになっているとは思えない。服装が、である。  黒いドスキンの略式礼服に、シルクのキラキラ光るような白ネクタイ、黒の短靴。  自分の眼で見下ろしていながら、首から下、他人の躰《からだ》が歩いているような気がした。  いつものサファリルックで出かけようとしたところを、母の雪江につかまった。 「光彦さん、あなた、今日は堀ノ内さんのお式に出るのじゃないの?」 「そうですよ」 「でしたら、何です、その恰好」 「いけませんか」 「当り前です。狂気の沙汰《さた》ですよ」  言うことが大仰だ、と思うが逆らえない。その結果が、この体《てい》たらくである。兄の若い頃の服が足の長さ以外、ほぼピッタリのサイズだったのも運が悪かった。せめて車でと思ったが、「ご披露宴でご酒をいただかないのは失礼です」と、門を出るまで眼を光らせていた。  街中の人の視線が自分に注がれているような恐怖感に耐えながら、浅見は長身を縮める想いで歩いた。  実際、行き交う女たちはたいてい、浅見に視線を送り、仲間と連れ立っている者は、目ひき袖《そで》ひきして、何やら小声で噂《うわさ》した。それはすべて、浅見に対する憧憬《どうけい》をこめたものなのだが、当人には侮蔑《ぶべつ》と嘲笑《ちようしよう》にしか受け取れないというのも悲劇である。  浅見にとって、堀ノ内の結婚はある種のショックだった。堀ノ内が独身でいるかぎり、母親が持ち出す縁談を断わる口実に使えたのが、最後の砦《とりで》を失ったようなことになった。  かといって、浅見が独身でいるのは、主義でもなんでもない。縁がなかったこともあるだろうが、言ってみれば、軽度の女性アレルギーで、原因はもちろん、宿命的なマザコンだ。そのことは、浅見自身、充分すぎるほど自覚してはいた。  高校時代「ヒョロノ内」と仇名《あだな》されていた堀ノ内が、久びさ、会ってみると、長身は変わらないにしても、肩や胸のあたりに厚みが出来、陽灼《ひや》けした容貌《ようぼう》とあいまって、精悍《せいかん》そのものの�海の男�に変身を遂げているのには、浅見は少なからず驚かされた。  花嫁となる女性も悪くない。営業窓口にいるというだけあって、並のOLとはひと味違った、キュートな爽《さわ》やかさがある。 「こいつが浅見光彦、いま売り出し中の私立探偵だよ。高校の時はワルでさ、エスケープの大家だったくせに、いまは追いかける方だっていうんだから、笑わせる」  堀ノ内の紹介に、「まあ、すてき……」と目を瞠《みは》ってみせた。媚態《びたい》ではなく、心の底から探偵という職業に興味をそそられている感じが表われているから、かわいい。 「いや、探偵というのは嘘ですよ、たまたまある事件に関係したところが、運よく犯人が捕まった(『後鳥羽伝説殺人事件』——参照)というだけで、その実体は、しがない雑文書きなのです」  あの事件以来、�探偵�としての虚名が先行していることに、浅見はいくぶん辟易《へきえき》していた。実際に事件を持ち込んでくる�客�もあり、非公式ながら警察から「知恵を借りたい」と言ってきたことも二度、ある。一般の�客�はまだしも、警察からの依頼というのは、裏に、警察庁幹部である兄・陽一郎へのおもねりが見え隠れするようで、どうにも素直になれない。かといって断わるのも不遜《ふそん》なような気がするので、結局は引き受けることになるのだが、たとえ、世間から�探偵�のレッテルを貼《は》られるとしても、自分は雑文書きの矜持《きようじ》を捨てるつもりはなかった。  それでも、美しい女性に憧《あこが》れのまなざしでみつめられるのは、悪い気持ちではない。 「おい、いい嫁さん、見付けたな」  花嫁が着付けの方へ去ってから、浅見は堀ノ内の脇腹《わきばら》を小突いた。堀ノ内はニヤニヤ笑いながら、「ばか言え、見初められたのは俺の方だ」と威張った。ひとくさり、馴《な》れそめの話などしたい様子だったけれど、参会者が現われはじめ、挨拶《あいさつ》が忙しくなってきた。 「そうだ、浅見に話したいことがあったんだっけ」  合い間に寄ってきて、「しかし、あんまり縁起のいい話題じゃないかなあ……」と思案した。 「なんだ、勿体《もつたい》ぶりやがって」 「いや、そういうわけじゃないけどさ……、先日、高田馬場で、マンションから男が飛び下り自殺した事件があったろう」 「なるほど、あまりいい話じゃないな」 「だからさ、だから止めとこうかと思ったんだが、まあいい、ついでだから言っちゃうけれど、その自殺した男な、俺、知っているんだ」 「ほう、知り合いか」 「いや、知り合いってわけじゃないが、一昨年《おととし》の五月、ウチの船で転落事故があってな、その時の乗客のひとりだった人物だ。当山っていってね、遠山の金さんの遠山じゃなく、当たる山って書く。下の方は、林太郎、変わった名前なんで、よく憶えている。ただそれだけのことなんだが、妙に気になってしようがない。誰かに話したかったが、内容が内容だからね、しかしお前なら構わないだろうと思ってさ。ああ、スーッとした、これで心置きなく旅ができるよ」  言うだけ言うと、堀ノ内は�お召し替え�のためにすっとんで行った。 (相変わらずだな——)  浅見は微苦笑を浮かべた眸《め》で、かつての悪友を見送った。高校時代もよく喋《しやべ》る男で、浅見はいつも聴き役に回らされた。二人とも、かなり無鉄砲をやったけれど、きわどいところで抑制のきく浅見のお蔭で、それなりの成績で卒業できた。浅見にはまた、常人にはない直感力みたいなものが備わっていて、些細《ささい》なことに拘泥《こうでい》する癖もあった。期末試験のヤマをかける才能では浅見は群を抜いていた。教科書やノートをペラペラめくっているうちに、天啓のごとく出題個所がひらめく。「ここのところが、どうも気になるな」と浅見が言えば、まず間違いなくその部分から出題された。堀ノ内が「妙に気になってしようがない」ことを浅見に押しつけていったのには、そういう理由があった。  そうして浅見は、堀ノ内の思惑どおり、彼の�気がかり�を背負い込むことになった。堀ノ内のハネムーンを見送ってから、浅見は戸塚署へ寄ってみた。橋本刑事課長とは、たまたまある事件を手伝わされた仲だったことも、浅見をその気にさせた一因かもしれない。 「なんですかい、その恰好……」  黒いスーツに白いネクタイ、紫の袱紗《ふくさ》包みをぶら下げた浅見を見て、橋本は笑い出しそうな顔をした。 「結婚式に招《よ》ばれた帰りでして、どうもみっともないのですが、堪忍してください」  浅見は橋本の脇に座りこむと、早速、用件を切り出した。 「先日の転落事件は、やはり自殺ですか」 「ええ、一応、そのセンで決まりそうですな。もちろん、まだ結論を出したわけじゃないですがね」 「というと、目下、調べ中ですか」 「遺書がないもんですからね、念のため、身内関係に問い合わせているところです。もっとも、直前に電話をかけた女性に、自殺を匂《にお》わせるようなことを言っていますから、まず間違いはないでしょう。それに、現場の状況から見て、過失による転落とは考えられませんしね」 「殺しのセンは考えられませんか」 「でしょうなあ、なにしろ、密室ですから」 「密室……、ですか」 「ええ、窓もドアも、転落した窓を除けばすべて鍵がかかっていました。ドアは複製のきかない電子ロックで、一個はサイドボードの抽出し、一個は背広のポケット、残りの一個は管理人室の中にあったのです」 「管理人室の鍵は使えなかったのですか」 「だめですな、管理人室そのものに鍵がかけられていましたから。あの日は管理人は留守で奥さんがいたのだが、ちょっと買い物に出たところで、あの事故を目撃したのです。その時、室にはちゃんと鍵をかけたそうです。帰りに鍵を開けて入ったから間違いない、と言っております」 「管理人はどこにいたのでしょう」 「管……」  橋本は呆《あき》れた目を向けた。「まさか、浅見さん、管理人を疑っているんじゃないでしょうな」 「疑ってはいませんが、対象から除外する理由もありません」 「なるほど。しかし管理人がその時間、新宿にあるビル会社、つまり、あのマンションを管理している親会社ですな、そこにいたことは確かです。管理人に会っていた安本という営繕課長にウラを取ってあります」 「その安本という人物はどうです」 「どう……って……」  橋本はついに、絶句し、それから笑い出した。 「あんたって人は、恐ろしい人だねえ。いや、参りましたよ、浅見さんにかかっちゃ、イエス・キリストも容疑者にされかねない。まあ念のため、調べてはみますが、安本氏が単純なでたらめを言うとは思えませんから、おそらく無駄でしょうがねえ」 「管理人の妻は信用できるのですか」 「ウヒャー、またですか。正直言って、そう突っ込んだ調べをしたわけじゃないですが、疑う材料がありません。それとも、何か臭《にお》いますか」 「転落の瞬間を目撃したということですが、どうも、偶然にしては出来すぎていると思いましてね」 「うーん、そこまでは考えもしませんでしたが、しかしねえ、一緒に目撃した女性もいることだし、まず問題はないんと違いますか。それとも、その女性に当たってみましょうか」  橋本刑事課長はいささかムキになっている。浅見もさすがに苦笑して、「いや、それには及ばないでしょう」と言った。 「ところで、死んだ男の略歴など、教えていただけませんか」  橋本は、もう勝手にしてくれといわんばかりの仕草で、調書を差し出した。浅見は別に気にもせず、手帳に要点を書き写した。 「ほう、死んだ当山という男は高知県の出身ですか」  そういえば、当山は高知行の船に乗っていたのだった、と、浅見は思い出した。 「この男、何をやっていたのです?」 「仕事ですか、仕事は、早稲田大学の近くで小さなコーヒー店をやってまして、偏屈なおやじだが、なかなか旨《うま》いコーヒーを飲ませるんで、学生連中の評判はよかったそうです。しかし、店の権利を抵当に金を借りていたくらいですから、あまり儲《もう》かっていたとは言えんようですな。自殺の原因もその辺にあるんじゃないかという噂でした」 「自殺の徴候のようなものはあったのでしょうか」 「現在までのところ、出てきませんな、故郷の本籍地の方へは問い合わせたばかりで、まだ返事はきていないが、店の定連や、管理人夫婦の話を聴いたかぎりでは、どうも思い当たるようなものはなかったようです。借金が自殺の原因、という説も、強《し》いて挙げればという程度のことで、本人はあまり気にもしていなかったらしく、自分にはいざとなれば、いくらでも金を引き出せるアテがあるのだ、と豪語してたそうです。もっとも、ただの強がりと取れないこともありませんがね」 「しかし、死ぬまぎわ、自殺を匂わすようなことを言ったそうじゃないですか」 「クラブのホステスに、電話でそんなようなことを口走ったらしいが、あれはLSDによる錯乱が言わせた科白《せりふ》で、�自殺�はもののはずみのようなものだと思いますよ」 「そのLSDですがね、当山はLSDの常習者だったのですか」 「いや、その辺のことは、まだはっきり分からないのですがね」  浅見は沈黙した。戸塚署の調査は完璧《かんぺき》だと思った。 �自殺�に疑義を挿む余地はまったくない。要するに、地方出身の中年男が東京という魔物のような大都会の片隅で、それこそ魔がさしたような自殺を遂げたという、ただそれだけの事件だったのだ。浅見はもう一度、手帳の中の文字を眺めた。  ——高知県|幡多郡《はたぐん》西土佐村大字|藤《ふじ》ノ川《かわ》 「当山の故郷というのは、どういうところでしょうねえ」 「高知県の西の方の、山の中らしいですよ。高知県警に聞いたところによると、平家の落人《おちゆうど》部落だったそうで、地元では『隠《かく》れ里《ざと》』と呼んでいるとか言ってました」 「すると、当山は平家の末裔《まつえい》ということですか」 「そうかもしれませんな」  浅見の脳裡《のうり》に、まだ見ぬ�隠れ里�の風景がイメージされた。谷川沿いの杣道《そまみち》を分け入ると、にわかに視界がひらけ、桃の花の咲ききそう集落がある。そこの家々は、なぜか白川郷《しらかわごう》に見られるような合掌造りであった。     3  堀ノ内夫婦がハワイ土産《みやげ》を持って浅見家を訪れたのは、十日後のことである。 「よほど楽しいことがあったとみえて、ずいぶん長い旅行だったな」  いきなり浅見が冷やかすと、堀ノ内の肩に隠れるようにして、新婦の久美が真赧《まつか》になった。 「ばか言え、とっくに帰ってきて、もう二《ふた》航海もやったさ。うちの社がそんなにのんびりさせてくれるわけがないだろ、久美と休みが一致する日がなかったから来られなかっただけだ」  堀ノ内の蛮声を聞きつけて、浅見の母が顔を出した。両手を膝《ひざ》の上に置いたまま、真直ぐ伸ばした背を軽く前に倒して、「おめでとうございます」と言う。身分だの格式だのをいまだに金科玉条《きんかぎよくじよう》にしている女としては、この程度の挨拶が息子の同級生に与えるべき最大級の儀礼と弁《わきま》えているのだ。  堀ノ内は極度に緊張して、「は、ありがとうございます」と、こっちの方は畳に手を突いて最敬礼した。久美も慌《あわ》ててそれを見習った。浅見はもちろんだが、堀ノ内にとっても、この昔風の賢母は苦手そのものだ。 「堀ノ内クンはご立派になりましたわね」と�賢母�は宣言するような口調で褒《ほ》めた。 「やはり、ちゃんとしたお仕事に専心なさっている方には、いつのまにか毅然《きぜん》とした風格が備わってくるものです。殿方はいつまでも軽薄であってはなりません」  ジロリ、と目の隅で息子をとらえ、それから久美に微笑《ほほえ》みかけ、「あちらへいらっしゃい、お手伝いしてくださるでしょう?」と、台所の方へ誘い出した。久美は足が痺《しび》れているところに緊張が重なって、敷居をまたぐとき、あやうく躓《つまず》きそうになった。 「相変わらずだな、お袋さん」  胡座《あぐら》に崩した脚をさすりながら、堀ノ内は感嘆とも皮肉ともとれる言い方をした。 「ああ、あの狷介固陋《けんかいころう》は進行性だからね、年々、症状が重くなる」  浅見は苦笑を浮かべながら、「しかし、ああいう人種も少しは存在した方がいいのではないか、と、この頃は思うようになった。お袋を基準に物を見ていると、世の中の変貌《へんぼう》のスケールがじつによく分かるよ」 「観測の定点みたいなもんだな」  受けないジョークを言い、当の堀ノ内だけが笑った。 「大丈夫かな、あいつ……」。奥の様子が気になって、耳をすます。談笑する声が聞こえてきて、堀ノ内は正直に、堵《ほ》っとした顔になった。 「ところで、例の高田馬場の転落事故、あれ、どうなった?」  堀ノ内が訊いた。 「うん、あれはどうやら自殺らしいな、動機なんかに多少、疑問はあるが、しかし自殺を否定できるような根拠は、ない」 「そうか、自殺か……」 「確定したわけじゃない、所轄署で高知県警の方に確認をさせているとか言ってたが、その結果はまだ聴いていないのだ」 「高知?……、というと?……」 「当山という男、高知県の出身だ。あれ? お前さん、知らなかったのか」 「知るわけないだろ」 「そうか、俺はまた、高知行の便に乗っていたというから、てっきりそのことも知っているのかと思っていた」 「いや、高知行の船には違いないが、当山という人は那智勝浦で下りたんだ」 「ほう、高知へ帰ったんじゃないのか」  なんとなく妙な気がした。ゴールデンウィークに高知行の便に乗っていたと聞けば、故郷へ帰ったものと考えるのが普通だ。それが途中で船を下りたというのは、ちょっと裏切られたような気分がする。 「その時、当山は誰かと一緒に旅行していたのかい」 「いや、独りだ、独りで車を運転して下りていった」 「ふうん……、独りか……、ますます妙だな、恋人か友人とドライブ旅行を楽しむというなら分かるが、独りで、高い航送料金を出して車と一緒に——ということなら、故郷に錦《にしき》を飾ろうとしたとしか考えられないじゃないか」 「そんなこと言ったって、そりゃ、カラスの勝手というものだろ」  堀ノ内は笑った。 「いや、俺はあくまで常識論を言っているのだ。しかし、当山の行動は常識から外れている。そこにはそれなりの理由がなければならないはずじゃないか」 「だけどさ、いまどき、車で帰ったからって、別に錦を飾るってほど、センセーショナルな話でもないぜ」 「いや、そうかもしれないが、当山の故郷は山の中の落人部落だそうだから、まだマイカーがステータス・シンボルになり得るのかもしれない、なにしろ、桃の花の咲く、合掌造りの別天地だからな」  浅見は自分勝手な想像《イメージ》を事実めかして喋って、ひとりで悦に入った。 「へえー、そんなところがあるのか、どこだい、そこは?」 「幡多郡西土佐村藤ノ川……」 「なんだって?」  堀ノ内のすっとん狂な大声に驚いて、久美が心配そうな顔を覗《のぞ》かせた。日頃、物に動じない浅見でさえ腰を浮かしかけたほどだから、喧嘩でもはじめたと勘違いしたのかもしれない。 「だいじょうぶですよ。どうぞご心配なく、お宅のご主人はどうにかなっちまったというわけではありませんから」  浅見は久美に向かって、笑いながらつとめて優しく、言った。しかし堀ノ内は真面目《まじめ》を通り越して、蒼褪《あおざ》めた顔をしている。 「おい浅見、その住所、間違いないか」 「間違いないよ」  どうしたんだ、と問いかける眼を向けた。 「一昨年《おととし》の転落事故で死んだお客の田舎《いなか》っていうのが、たしかそれと同じ住所だった」  こんどは浅見の顔色が変わった。 「ほんとうか?」 「ああ、たぶんな。いま浅見がその住所を言った時、はっきり字面《じづら》が浮かんだ。西土佐村藤ノ川が、憶え易《やす》い、変わった地名だと思った記憶がある」 「名前はなんていうんだい」 「たしか、稲田とか稲川とか、そんな名前だと思ったが」 「年齢は?」 「三十八歳だったか、九だったか、とにかく四十少し前であることは間違いない」 「当山林太郎は四十歳だ」 「じゃあ、ピッタリ同じぐらいじゃないか。あの男も生きていれば、そんな歳だよ。同級か一年ぐらいの差か……、とにかく、そんな小っぽけな村なら同じ学校に通っていたはずだ」 「船の中で顔を合わせれば、分からないような同士ではないな」 「まあね、しかし、船の中といっても結構広いからなあ、会わず仕舞いという可能性もないわけではない。夜のうちに転落事故が起きたし、当山は那智勝浦で下りて事故のことも知らなかったのだろう」 「それだよ、そのこともやっぱり気になる。何かひっかかるなあ……、と言っても、表面上は特別な関連があるというわけではないが……」  浅見は考え込んだ。高田馬場のマンションで死んだ男が、堀ノ内のいう「当山」と同一人物だとして、そこに特別の意味を発見しようとするのは無駄な努力かもしれない。平家の落人部落から都会へ出て就職している人は少なくないだろうし、その内の一人が船から落ち、別の一人がマンションから転落して死んだとして、相互を因果関係で結ぶ必然性は何もない。その双方に堀ノ内が関わりをもっていたというのも、単なる偶然でしかないのだ、——と理性では、思う。だが、理性や論理とは外れた感性のような部分で、浅見はただごとでない不吉なものの気配に触れたような気がしてならないのだ。 「その一昨年《おととし》の転落事故というのは、事件性はなかったのかい?」 「事件性、というと?」 「つまり、自殺とか他殺とかの疑いはなかったかということだ」 「それはなかったようだな、いや、あの事故には二億円近くの保険金がからんでいたもんで、保険会社の調査員なんかがしつこく調べていたけれど、結局、それっきりになったらしい。こんなこと言っちゃいかんが、あの奥さん、どっと大金が入って、かえってその方がよかったんじゃないか、なんて口さがない噂も出たくらいだ。とにかく、死んだ亭主というのが定職を持たない、ヒモみたいな男だったらしいからね」 「そんな亭主に二億円もの保険をかけていたのか?」  浅見は眉《まゆ》をひそめた。 「ずいぶん不自然じゃないか」 「ああ、たしかに不自然だが、保険会社が結局、金を払ったのだから、要するに、疑う余地がなかったということだろう」 「金はすでに支払われたのか」 「うん、俺も気になっていたから、事故から丸一年経った去年の五月、保険会社の調査員に電話して訊《き》いてみたんだ、そしたら、一昨年の十一月に死亡認定がなされ、保険金は全額、支払われたそうだ」 「その奥さん、いまどうしているかな」 「さあ、そこまでは訊かなかったが、興味があるのなら、浅見、おまえが調べてみたらどうだ」  堀ノ内は焚《た》きつけるようなことを言った。もっとも、それがなくても、浅見の気持ちはすでにその方向に動いている。事件への興味もさることながら、『西土佐村藤ノ川』という平家の落人部落に、憬《あこが》れにも似た、心ときめく期待感があった。 「そうだな、おまえの運転する船にも乗ってみたいし、一度、高知へ行ってみるか……」 「船に乗ってくれるのはありがたいが、高知へ行って、どうする?」 「そうか、高知には事故も事件もなかったのだったな。しかし、俺の中で『高知へ行け』と命じる天の声がする」  浅見はもったいぶって言って笑ったけれど、それはかならずしも冗談というわけではなく、ある種の予感めいたものは、確かに、あった。  翌日、浅見は戸塚署の橋本に電話して、その後の経過を訊いた。 「さしたる進展はありませんな」  橋本はのっけから気乗り薄な返事をした。 「浅見さんの意見を尊重して、管理人夫婦を洗い直してみましたがね、別に疑うべきものは何もありませんでしたよ」 「当山の郷里の方はどうでしたか、自殺を裏付けるようなものは何か、みつかったのですか」 「いや、まるっきりですな。と言うよりなにより、当山の系累はすでに存在しないのですよ。本籍地の住所には廃屋が残っているだけで、家族は全員、死に絶えたらしい。いや、とにかく遺体の引き取り手もないようなことでしてね、しようがないから、当山の骨は無縁仏として寺に納めました」 「当山は独り者と聞いておりますが、一度も結婚の経験がないということですか」 「そうです、内縁関係は分かりませんがね、少なくとも戸籍上はずっと独身のままですな」 「すると、遺産の相続人もいないというわけですか」 「さあ、それは役所の方の管轄だから、私は知りませんが、遺体は引き取らなくても、遺産なら引き取るという連中が、いずれ現われるのじゃないですかなあ。もっとも、遺産といっても、あのマンションぐらいなもので、現金なんかはたいしたことなかったらしいですがね」  警察には、これ以上、自殺事件を追いかける意欲のないことを、浅見は認めないわけにいかなかった。それから何日かかけて、保険会社の調査員・三田村博に会う段取りをつけた。三田村がそういう性格なのか、それとも保険会社の方針がそうなのか、第三者のコンタクトに対してかなり神経質であることを、浅見は感じた。予定がつまっているとか、出張中だとか、見え見えの口実を使って避けていた相手が、とつぜん電話で「お会いしたいのですが、ご都合は?」と言ってきた時は、だから浅見は狐《きつね》につままれたような気がした。  大手町にある、ばかでかい本社ビルの応接室で、浅見は三田村と会った。 「浅見さんは警察庁の浅見刑事局長さんの弟さんだそうですねえ」  三田村は如才ない笑顔で浅見を迎えた。なるほど、そういうことか——と、浅見は納得した。三田村はこっちの素性を調べる余裕が欲しくて、会見を引き伸ばしていたのだ。相手が警察庁のおエラ方の身内と知って、慌てて電話を寄越した。その豹変《ひようへん》ぶりが浅見にはやりきれない。「名探偵」などと煽《おだ》てられ、いつまでも兄の世話にはならないつもりでいるのに、現実にはこんなふうに�兄の威を借る�ケースにでくわしてしまう。それもまたよし——と達観できるところまで、浅見はまだ老成してはいない。 「一昨年の五月に起きた、『しーふらわー号』の転落死亡事故のことでお訊きしたいのですが」と、浅見は饒舌《じようぜつ》を省《はぶ》いて用件を切り出した。 「ほう?」と三田村は意表を衝《つ》かれた顔になった。 「あの事故が、浅見さんと関係しているのですか?」 「いや、そういうわけでもありませんが、あの事故で亡くなった方に二億円近い保険がかけられていたということに、ちょっと興味を惹《ひ》かれたのです」 「そうですか、確かにわれわれ保険会社としても、あの金額には興味以上の関心を抱きましたが、しかし、それが何か?」 「保険金は全額支払われたそうですが、つまりそれは、疑わしい点がなかったということでしょうか」 「うーん、それはなかなか微妙な問題ですねえ。まったく疑わしい点がなかったとも言えず、しかし、結果的には保険金をお支払いした以上、疑う余地はなかったということになるわけでして……」 「その疑わしい点というのは、具体的にはどういう点を指しているのですか」 「まず、保険金額の大きすぎることですね。毎月の掛金総額が十万円を超えるというのは、あのお宅のスケールからみて、明らかに不相応です。しかし、奥さんが主張された理由にも正当性がないわけでもありませんで……」 「その理由というのは、どういったことなのでしょう?」 「あの方の奥さんはクラブのホステスさんでしてね、お客さんの中に、たまたま保険会社の社員が何人かおりまして、飲みにきたついでに保険の勧誘をしていたのです。それで、保険に加入することがお客をつなぎ留めることに通じると考え、多少の無理をしてでも保険に入ろうと考えた結果、あの金額まで膨れあがってしまった——というのが奥さんの主張でした。つまり、加入させる時だけ無理じいして、いざ払う段になると出し渋るのはおかしい、と、たいへんな剣幕でした」 「なるほど、その意見には共感できますね」  浅見が冷淡な言い方をすると、三田村は卑屈に「へへへ」と笑った。 「つぎに、被保険者の死亡した時の状況について疑問があったのです。あの時、亡くなったご主人はかなり酔っていたそうで、そういう状態で船の甲板《デツキ》に出れば、当然、転落の危険性は大きいと考えるのが常識です。会社としてはその点を、いわゆる『重大な過失があった場合』という契約条項の支払い拒否のできるケースではないかと考えたのですが、他社とも相談した結果、結局、全額支払いに応じざるを得ないだろうということになったのです。しかし、私に言わせれば、あれは裁判で争ってもいいくらい、微妙な問題を含んだケースだったと思いますがね」 「自殺、あるいは、他殺という観点からもお調べになったのでしょう?」 「もちろん調べました。この種の事件では、警察は存外、アテになりませんでね、むしろわれわれ保険調査員の方が、金がからんでいるだけに、徹底した調査を行なうのです。しかし、自殺もしくは他殺と断定できる根拠は何も発見できませんでした」  三田村は、当時の無念を思い出したのか、天井を睨《にら》んだ顔を悔《くや》しそうに歪《ゆが》めた。 「しかし、浅見さんがそんな古い事件に関心をお持ちになったのには、何か特別な理由がおありなのではありませんか? お差し支えなければ、ぜひお聞かせいただきたいものです」 「そうですね……」  少し逡巡《しゆんじゆん》してから、浅見はひととおりのことを話してみることにした。 「三田村さんもご存じのはずですが、『しーふらわー』の一等航海士をやってる、堀ノ内という男が、私の親友なのです」 「ほう、そうでしたか。なるほど、それで、いろいろご存じなのですね」 「じつは、その男が妙な話を持ち込んできましてね、二年前の事故の際、那智勝浦港で下船した、当山という人物が、つい先日、高田馬場のマンションから転落して死んだ、というのです」 「ああ、その事故のことなら、私も新聞で見ました」 「話というのは、ただそれだけのことで、だからどう、というわけでもないのですが、堀ノ内は妙に気になってしようがないというので、ちょっと調べてみたのです。ところがその結果、面白いことが分かりました」 「じゃあ、単なる事故ではなかったのですか?」 「いや、それはまだ分かりません。面白い、というのは、その当山という人が、なんと、二年前、海に落ちた稲田さんと同郷人で、しかも、どうやら同年輩らしいのです」 「ほう……」  三田村は、怪訝《けげん》そうな眼を浅見に向けた。 「いや、それも、単なる偶然、と言ってしまえば、それまでですが、しかし、その二人の郷里というのが、平家の落人部落といわれるような小さな村で、常識的に考えて、親しい付き合いをしていたと思われるのに、『しーふらわー』の事故の際、さっさと船を下りてしまった、というのは解《げ》せません。しかも、その時、当山氏はひとりで車を運転していたというのもおかしい。ゴールデンウィークに、故郷の高知へ向かう船から下りて、いったいどこへ行くつもりだったのか……」 「なるほど、なるほど……」  三田村は、しきりに、両手をこすり合わせた。 「つまり、浅見さんは、当山なる人物が、『しーふらわー』の転落事故に関係があったのではないか、とおっしゃるのですね」 「あまり根拠のある話ではありませんが……」 「いえいえ、たいへん興味深い話ですし、われわれといたしましては、無視できないお話です」 「しかし、あの事故に対する保険金はすでに支払われたのでしょう。いま頃、こんな話を蒸《む》し返すのは、かえってご迷惑なのではありませんか」 「とんでもない、なにしろ金額の大きな話ですから、少しでも疑う余地があれば、会社は調査費用を吝《お》しむようなことはいたしません」 「は?……」  浅見は思わず、相手の顔を見た。三田村は何か誤解したらしい。 「少々、お待ちください。上司と相談して参りますから」  制止するまもなく、三田村は去り、しばらく経ってから、野村という調査部次長の肩書の男を連れて戻った。 「三田村から聴きましたが、浅見さんは警察庁の浅見局長さんの弟さんだそうで……」  野村は如才なく挨拶した。 「ぜひ、現在なさっている調査をお続け願いたいものです。いえ、私どもの会社ばかりでなく、関係各社、ひいては保険業界全体のために、ご尽力をいただきたいのです。もちろん、必要な経費はお支払いいたしますし、現実に、不正行為があったことが明らかになりましたあかつきには、応分の謝礼を、各社ともども、お支払いすることになります。さらに、これを機会といたしまして、わが社調査部の顧問としてご活躍いただければ、と考えておる次第です……」  よく喋る男だ。話が大きく、思わぬ方向へ広がっていきそうなので、浅見はあっけにとられながら、野村次長の口の動きに見とれていた。 第三章 平家の里へ     1  浅見にとっては初めての長距離の船旅は、快適そのものだった。  晴海まで車で来たのだが、航送料金が惜しくて、そのまま埠頭近くの駐車場に置いてきた。半分、家がかりみたいな身分で、贅沢《ぜいたく》はいえない。 「どうだ、いい船だろう」  堀ノ内は大いに自慢して、船内をくまなく案内して回った。好奇心のかたまりのような浅見には、どれもこれも興味の対象にならない物はなかった。 「例の、転落事故の現場が、ここだ」  堀ノ内は3F甲板の右舷デッキ中央に立って、言った。 「その時の情況を再現してみてくれないか。俺がその、転落した男と仮定して、ここに立っているから、堀ノ内は近づいてくるところからやってくれ」  浅見の希望に従って、堀ノ内は後部デッキから歩いてきた。 「ここで一声かけて、すぐに通り過ぎたのだ」  堀ノ内は言い置いて、船内へ通じるドアを入った。  三秒ぐらい間《ま》をとって、顔を出す。 「悲鳴が聴こえて、こんな具合に飛び出したら、もうお前は消えていた」 「ばか、俺が落ちたようなこと、言うな」  二人は笑い合った。近くにいる客たちが、不思議そうに眺めていた。  それから、浅見は船内への距離と、階段までの距離を確かめるように歩いた。 「何かあるのか?」  堀ノ内が訊いた。 「いや、別にそういうわけじゃないが、一応確認しておくだけだ」  軽く言いながら、浅見はしかし、かなり長いこと思案に耽《ふけ》っていた。  高知には午後四時前に着いた。浅見はその足で県警本部へ行った。県警本部長の吉野《よしの》が兄・陽一郎の同期で、兄から「顔を出すように」と指示されている。そのための土産に、『舟和《ふなわ》』の芋羊羹《いもようかん》を預かってきた。 「ヤッコさん、よく憶えていてくれたもんだなあ」  吉野は赧《あか》ら顔を一層、赤くして喜んだ。どう見ても酒豪の顔の吉野は、しかし、若い頃からの下戸で、浅見家では母の茶の相手をさせられていた。兄の友人のグループが、よく浅見家に集まった頃のことで、父もまだ元気だった。 「国家の中軸は、大蔵と内務だ」というのが父の持論で、自分の後輩である東大の学生たちを前に熱弁をふるい、酒を酌《く》み交していたのを、当時、小学生だった浅見は、憬《あこが》れと疎外感を交々《こもごも》、抱きながら眺めていたものだ。  祖父がそうであったように、父もまた、官僚として頂点をきわめた人物だ。兄もいずれはそうなるのだろう。同期の中では自他ともに認める出世|頭《がしら》だ。その浅見刑事局長が自分の好物を憶えていて、弟に届けさせてくれたことに、吉野は素直に感激している。 「早速、頂戴するよ」  秘書に包みを開けさせ、吉野は浅見の見ている前で芋羊羹をつまんだ。 「こいつは、『舟和』にかぎるんだよ」  うまいうまい、と、たて続けに二切れを食い、茶を啜《すす》る。見ている浅見の方が、胸がつかえた。 「で、今回の目的は何?」 「ちょっと取材で、藤ノ川というところへ行きます」 「藤ノ川?」 「西土佐村にある、平家の落人部落だそうです」 「ふうん……」  吉野に知識はなさそうだった。 「予備知識が必要なら、誰かに説明させるが」 「いえ、それには及びません。何も知らずに行った方が、印象が強いですから」 「なるほど、それもそうだね。しかし、何か困るようなことがあれば、いつでも言ってくれ。芋羊羹のお礼ぐらいのことはできるからね」  あはは、と吉野は豪放に笑った。兄の真意はそこにあることが、浅見にもよく分かった。クールな完全主義者でありながら、旧友や弟への思いやりに思いがけぬ細やかな心づかいをする優しさも、まぎれもなく兄の一面なのだ。 (かなわない——)と、浅見は思った。  晩飯は吉野の案内で土佐料理をご馳走《ちそう》になった。吉野の健啖《けんたん》は相変わらずで、酒飲みの好みそうな料理を、渋茶だけで、呆れるほど食った。 「嫁さんは、まだ?」 「ええ、だらしのない話ですが」 「なんの、急ぐことはないさ。官僚は、いろいろ外圧があったりして、心ならずも身を固めなきゃならんこともあるが、きみはむしろ余計な首枷《くびかせ》などない方が似合いだよ。いや、しかし、こんなこと言うと、母上に叱《しか》られるかな」  首を竦《すく》めて、「内緒、内緒」とつけ加えた。浅見は笑って、 「母には、年中、言われています」 「だろうねえ、想像はつくよ。だからって、前言を翻《ひるがえ》すわけではないが、母上を安心させる意味からいうと、適当な時期に年貢を納めた方がいいかもしれない。まあ、選《え》り好みするのも結構だがね」 「いえ、そんな贅沢を言ってるわけではありません」 「しかし、君みたいな仕事をしていれば、女性との付き合いに事欠かないだろう。旅先でロマンスが生まれるなんてことはないのかい。土佐にだって、いい女は多いぜ」 「吉野さんの奥さんもそうでしたね」 「ああ、あれはだめだ、呑《の》ん兵衛《べえ》でね……」  吉野は憮然《ぶぜん》とした顔になった。  高知発七時五九分、急行『あしずり1号』は乗車率三〇パーセント程度の客を載せ、定刻どおりに出発した。  発車ベルが鳴り了《お》える寸前、若い女が走り込んできて、浅見の斜め前の席に腰を下ろした。 (ほうっ……)と、浅見は自分の幸運を思った。美しい娘であった。何よりも、ほとんど素顔のままではないかと思えるほど、化粧っ気を感じさせないのがいい。浅見は厚化粧の女には生理的な拒否反応を感じてしまう。ことに、少女といってもよさそうな娘が、化粧品会社の商魂を丸呑みしたような化粧で、若々しい素顔の魅力を塗りつぶしてしまうのが理解できない。目の前の娘の顔には、わずかに口紅を差したかと見える以外、余計な装飾は施されてなかった。アイラインだの目ばりだのという姑息《こそく》な手段に頼らなくても、「鈴を張ったような」という古風な表現がぴったりの、大きな眸《ひとみ》が見開かれている。のびやかな鼻筋、小さめの唇、上気した頬《ほお》——すべてのバランスが申し分なかった。  娘は提げていた粗末なボストンバッグを、空いている隣の席に置き、汗ばんだ額にかかる髪を煩《うるさ》そうにかき分けた。びっくりするほど大きなおでこが現われて、浅見は思わず微笑した。その瞬間、娘と眼が合った。浅見はごく自然に、小さく会釈を送った。娘はおどろいたような眸で浅見をみつめたまま、動かなくなった。別に非難のこもる視線ではなかったけれど、浅見は堪えきれず、先に視線を外した。 『あしずり1号』は土讃《どさん》本線を窪川《くぼかわ》まで行き、そこで車輛編成は二分され、一方は中村線、もう一方は予土線になる。浅見の乗る車輛は予土線を進み、一〇時三一分、江川崎《えかわさき》に到着した。  その間、浅見は娘とひとことも口をきかなかった。見知らぬ相手に対しては無用な話しかけをするものではない——というのは、母親から幼時に訓《さと》されたことのひとつで、そういう躾《しつけ》に関しては、浅見家の教育は徹底していた。三十三歳——物心両面で、とうに自立している浅見ではあっても、そういう本質的な部分では、無意識の裡《うち》に家憲どおり、自ら行動を規制してしまう。  列車が江川崎駅構内に入った時、浅見と娘は同時に立ち上がった。 「やあ、あなたもここですか」  浅見はつい、声を発した。娘は先刻《さつき》と同じ眸で浅見をみつめてから、逃げるようにプラットホームへ降りていった。木造の小さな駅舎で、浅見が駅を出るのにそれほど時間がかかったわけでもないのに、娘の姿はもう見えなかった。浅見はもう一度、改札口まで戻って、藤ノ川への道と交通の便を尋ねた。 「藤ノ川なら、あのバスに乗りなさい」  肥《ふと》った中年の駅員が、甲高い声で言い、駅前に停まっているマイクロバスを指さした。 「もうすぐ発車するよ、早く行きなさい」  浅見は周章《あわ》てて走った。頭がつかえそうな乗車口を、背をこごめて入ったとたん、ドアが閉まり、バスは動きだした。駅員に教わるまで、どこかの会社のマイクロバスかと思っていたが、乗ってみると、なるほど、確かに乗り合いバスらしい料金表示などがある。浅見は立ったまま、もの珍しそうに狭い車内を見渡した。そして、すぐ目の前の座席に、あの娘を発見した。娘は窓に顔を向け、外の風景に見入っているように見え、その実、意識の中にはっきり浅見の存在をとらえているのがよく分かった。  浅見は揺れる車内を通って最後部の座席に座った。  バスはじきに町を出外れ、川沿いの道を走る。南国土佐らしく、陽射しは四月のものとは思えぬほど明るく、鋭い。バスの客は全部で六人、浅見と例の娘のほかは老人ばかりで、話の様子から察すると、町の病院からの帰りらしく、お互いの病状の確かめ合いから、下《しも》がかった話題に逸れて、下卑《げび》た笑い声をあげていた。  その内、ひとりが思い出したように、前の席で背を向けている娘に、「東京はどうじゃった?」と声をかけた。それで浅見は、娘が東京からの帰途であることを知った。 「別に……」  娘は姿勢を変えず、短く答えた。 「ノリちゃんの嫁さんいうがに、逢えなかったが?」 「うん」 「当山の倅《せがれ》も死んだいうし、村を出た者《もん》にロクなことはない。罰が当たったがよ」 「そんな言い方、やめて!」  娘はきっと、振り返った。めらめらと燃えるような慍《いか》りを浮かべた眸が、老人たちにではなく、浅見のところで、止まった。 「ああ、怕《こわ》……」  老人は首を竦《すく》めたが、浅見はまるで自分が詰《なじ》られでもしたような気がして、慌てて視線を逸《そ》らした。  バスは大きな橋を渡ったところで国道と岐《わか》れ、幅の狭い山道にかかった。舗装状態も悪く、屈折もはげしい。左は崖《がけ》、右は谷という隘路《あいろ》を、ギアをセコンドに入れたまま、ゆらゆらと登る。すれちがう車もなく、行けども行けども人家は現われない。このまま山の中に吸い込まれてしまうのではないか、と浅見は疑った。  やがて、谷側へ少し下がった平地に建つ人家が見えてきた。そこへ下りてゆく三叉路《さんさろ》でバスは停まり、老婆が一人、「よっこらしょ」と降りた。三叉路の道端に登山標識に似た看板が立ち、風化しかけた文字で『寿荘』と読める。旅館か民宿のようなものらしい。ここが村の入口かと思ったが、バスはそれからさらに、いよいよ狭く、木々の生い茂る道をえんえんと登った。立木の下草を刈り取ったあとに、ところどころ、椎茸《しいたけ》を栽培する組木の集団が見られる。  ふいに視界が展《ひら》けた。盆地の中央を小川が流れ、左右のなだらかな斜面に田畑と人家が散在している。周辺はすべて、屹立《きつりつ》した山と尾根に囲まれていた。家々の庭先には小さな灌木《かんぼく》が淡黄色の可憐《かれん》な花を無数につけている。この地方だけに自生する土佐水木《とさみずき》という花だが、浅見に知識はなかった。イメージしていた桃の花は見えないが、名も知らぬ花が咲く風情《ふぜい》は、充分、浅見を満足させた。  盆地に入った最初の停留所で二人の老人が降り、そこからものの二〇〇メートルばかりの商店の前で、残りの一人と娘が降りた。  バスは浅見ひとりを乗せて、また少し走ってから、橋の袂《たもと》の小さな広場で停まり、運転手が前を向いたまま、「終点です」と言った。  料金を払いながら役場の場所を訊くと、「出張所なら、学校の隣の建物です」と指で示した。橋を渡ってゆく道の先に学校らしい建物とちょっとした集落が、軒を寄せ合っているのが見えた。バスを降り、河原石の露出した道を歩きながら、浅見は一種の違和感のようなものを、あたりの風景に抱きはじめていた。単に、知らない土地だからというだけの理由ではなさそうだった。学校の前まできて、ふと思い当たった。それは、風景の中に人の姿が見えないためだ。実際、バスの客を別にすれば、浅見はまだ、ひとりの村人とも行き会っていない。その索漠《さくばく》した想いは、校庭にも教室の窓にも子供たちの姿がないことで、いよいよ重く、憂鬱なものになっていった。  学校は小さいながら、外壁の色もきれいで、それほどの年代を感じさせないが、隣接する建物は多少の差こそあれ、ひどく古びたものばかりだ。とりわけ、�出張所�の建物は黒ずんだ板壁といい、屋根の庇《ひさし》に生えたペンペン草の量といい、民家のどれよりも一段と見劣りがした。  建物の中には中年の男女がひとりずつ、所在なげに机に向かい、茶を飲んでいた。浅見が入ってゆくと、まるで悪魔でも見るような信じられない眼を、こっちに向けた。他所《よそ》者がこの隠れ里に入ってくることなど、およそ珍しいに違いない。 「当山林太郎さんのことで、ちょっとお尋ねしたいのですが」  浅見が声をかけてから、ずいぶん間を置いて、「は、はい……」と男の方が立ってきた。 「どういうことでしょうか?」  ずんぐりした、気の良さそうな男の眼に、不安げな色が浮かんでいた。 「当山さんが亡くなられたことはご存じですね」 「はあ」 「当山さんの身内の方は、すでに一人もおられないそうですが、血のつながりのある縁故の方はまったく存在しないのでしょうか」 「はあ、おりません」 「すると、当山さんの生家はどういうことになっているのでしょうか」 「そのことなら、先日、警察から調べにきとったですが、あなたさんも警察の関係で?」 「ええ、まあ、そんなようなものです」 「あの当山さんちゅう人は、もともと、ここの人間ではないのでして、そういうわけで、身内もないいうことです」 「しかし、本籍地はここの住所になっていましたが」 「それは、はあ、確かにそうなっちょるけんど、それを説明するには、ちょっと長い話になりますで……」 「差し支えなければ聴かせてください、ぜひお聴きしたい」 「そんなら」と男は、ようやく浅見に椅子《いす》を奨《すす》めた。男の語ってくれた話を要約すると、つぎのようなものだ。  当山林太郎が父親に連れられてこの村へ入ってきたのは三十四年前、林太郎が六歳の春だった。当時この盆地を囲む山々は檜《ひのき》の伐採がさかんで、多い時には百人を超える労務者が営林署の伐採事業に従事していた。それまで、藤ノ川と外界をつなぐ道といえば、南側の峠《とうげ》を越え、中村へ抜けるルート一本だったのを、営林署が入ったことによって、現在の谷沿いの林道が開設された。それほど熱の入った事業だっただけに、村の経済は潤《うるお》い、人口も八百人以上までふくれあがったのである。  家族と一緒に移住してくる者も多く、彼らはお手のものの材木を使ってバラックを建て、村の住民と化し、子を産み、育てる、という生活が定着していくかに見えた。  当山の父親も労務者のひとりだった。  当山父子がなぜ二人だけで流れてきたのか。林太郎の母親はどうしたのかについて、誰《だれ》も知る者はいない。ただ、当山の父親・武男は大阪の出身で、戸籍原本が大阪大空襲の際に被災したままになっていたため、新たにこの村を本籍地と定める旨の記載が、戸籍簿に加筆されている。それが真実であるかどうかも、いまとなっては確かめるすべはない。  入村して間もなく、父親は作業中の事故で右脚を負傷、山仕事に従事することが無理な体になった。人柄のいい男で、村民との付き合いも如才なかったから、ある人の好意で古家を与えられ、農作業の手伝いをするようになった。村中の男という男が、即、現金収入につながる営林事業に従事して、野良仕事はすべて女任せというありさまだったので、多少、体が不自由とはいえ男手は歓迎されるという事情もあったのである。  林太郎は他の作業員の子弟と同様、藤ノ川小学校に入学していた。現在は全学年を合わせても十二名という就学児童数だが、当時は百名近くもあった。その中で、当山林太郎は図抜けて優秀な少年だったらしい。勉強ももちろんだが、指導力に秀れた才能を見せ、クラス委員や生徒会長を務めた。中学に進んでからも成績はピカ一。藤ノ川からは数少ない高校進学者の仲間入りをするだろうと噂されていた。  だが、林太郎が中学三年の夏、父親の武男は、古傷が原因の骨髄炎が悪化し、あっけなく死んだ。幸い、林太郎と同年の少年がいる隣家の親切で中学は了《お》えたものの、高校進学は断念せざるを得なかった。他の少年たちがそうであったように、林太郎も営林署の仕事に従事することになった。  ところが、卒業して二か月も経たない五月の末、林太郎は世話になっている家の少年を語らって村を出て行ってしまったのである。 「ちょっと待ってください……」  話の途中では相槌《あいづち》ひとつ打つことも遠慮していた浅見が、とつじょ、手をあげた。 「その、もうひとりの少年というのは、ひょっとすると、稲田教由さんじゃありませんか?」  堀ノ内から聞いた名を言ってみた。 「そのとおりです、ようご存じで……」  吏員は怪訝《けげん》な顔をした。 「やはりそうでしたか……」  しかし、そのことが分かったからといって、当山と稲田、それぞれの死がどのような意味を持ち、どのように関わりあっているのかは見当もつかぬことであった。 「当山さんがこの村を出た理由は何だったのでしょうか」 「そのことなら、私が直接、聴いたわけではないんですが、まあ、ちょっとした伝説のようになっちょる話では、林業そのものの先行きを悲観したためじゃいうことです。そげな子どもで、あの木材ブームの最中に見切りをつけたいうのは、たいした天才じゃいうて、いまでも話の種になっとります」 「ということは、その予言は的中したということですか」 「はい、営林署の側ははっきりした数字を示さなんだで、村の者はよう分からん内に、とつぜん伐採事業は終了ということになりまして、あとは、坊主になってしもた山の植林を細々と続けている程度というありさまです。ご覧になってお分かりかと思いますが、村の人口も、ピーク時の四分の一。若い者はどんどん出て行くしで、寂《さび》しいことになりました」  吏員の嘆息まじりの言葉には、救いようのない実感がこめられていた。 「その稲田さんという方も、一昨年、不慮の死を遂げられたわけですが、この村を出てから亡くなられるまで、二人がどうしていたかについてはご存じありませんか」 「ええ、それなんですがね、出て行ってまもない頃は便りもあったらしいのですが、ぷっつり音信不通になりまして、どこにいるやら分からんようになってしまったちゅうことです。当山さんの方は、もともと他所《よそ》からきた人ですけ、どちらでもいいようなもんですが、稲田教由さんの家族は心配されとりました。ところが、四年ばかり前、教由さんから役場宛に戸籍謄本の請求がきまして、それで東京にいるいうことが分かったのです。じつは、その半年ほど前に、稲田さんのところでは不幸がありまして、教由さんの兄さんで、跡取りの信隆《のぶたか》さんが亡くなっていたもんですから、父親の広信《ひろのぶ》さんは喜んで、一度帰ってくるように手紙を書きました。しかし、どういうわけか、教由さんはすぐには帰らず、二年前の五月でしたか、とつぜん、これから帰ると葉書を寄越した直後、フェリーから転落して亡くなってしもうたのです」 「すると、稲田さんのお父さんはまだご健在なのですね」 「はい、元気です」 「お訪ねしたいのですが、場所を教えていただけますか」  吏員は窓辺に寄って、ガラス越しに遠くを指さして、 「あそこの畑が切れたところに家が二軒見えるでしょう。あの下の家が、以前、当山さんが住んでいて、いまは廃屋になったままの家で、その上の家が稲田広信さんのお宅です」と教えてくれた。 「役場の安春《やすはる》から聞いてきたと言われるがいいです。あそこのおやじさんは、ちょっとつむじ曲がりですけん」 「安春さん、というのは苗字《みようじ》なのですか?」 「いや、苗字は稲田ですよ、この村の四分の一は稲田姓です。平家一門の稲田|某《なにがし》とその郎党が祖先ですから」 「では、平家の落人部落というのは本当なんですね」 「もちろん本当ですよ」  稲田安春は少し尊大ぶってみせた。「明治維新の頃までは、外部とはほとんど交流のない別社会で、いまでも�隠れ里�という名が残っているくらいですけ」  隠れ里——たしかにその名称にふさわしい秘境だ、と、浅見は窓の向こうに展《ひろ》がる風景を眺めながら、思った。     2  バスで通ってきた道とは川を挟《はさ》んで反対側の斜面を、ほぼ等高線沿いに川下方向へつづく細い道がある。道に面して民家が六、七軒、並んでいる。その内のひとつは食料品や雑貨を商《あきな》う小さな店だ。  いままで人影を見なかったのに、浅見が歩いて行くのを軒先に出て眺める人々がいた。半分、戸の陰に隠れるようにしている女や、家の前で腕組みをして見守る男。三人が額を寄せ合い、明らかに聞こえよがしに、「どこの者《もん》かの」と言い交わす者もいた。  サファリルックにテニス帽という浅見は、ここでは異邦人なみの扱いを受けるらしい。好奇心と警戒心のこもった無数の視線を、浅見は背中に感じながら歩いた。  かつて当山家であったという廃屋は、遠望した感じでは山村の牧歌的な点景でしかなかったが、近寄って見るとさながら幽霊屋敷だ。崩壊した土壁。桟《さん》だけが残った障子《しようじ》。ところどころ朽ち落ち、苔《こけ》と雑草に埋まった藁屋根《わらやね》——。凄絶《せいぜつ》で容赦のない時間の暴威が、鬼気を伴って迫ってくる。  廃屋の横を通って、一段高くなった場所にある稲田家の庭先に立った時、暗い入口の中からあの娘が出てきた。服装が普段着に変わっていたけれど、浅見にはひと目で彼女が分かった。 「やあ、また会いましたね」  娘は息を呑んで、立ち竦《すく》んだ。大きく見開いた眸が、くろぐろとこっちを睨《にら》んでいる。浅見が、さらに問いかけようと一歩を踏み出したと同時に、娘は鶺鴒《せきれい》が飛び立つように身を翻《ひるがえ》し、家の中へ逃げた。浅見は当惑と逡巡をもてあましながら、仕方なく、ノロノロとそのあとを追った。  土間から老人が飛び出してきた。柄の長い草刈り鎌《がま》を斜めに構え、浅見の前に立ちはだかった。 「なんな、お前は!」  歳は七十前後だろうか、野良着姿の貧弱な体躯《たいく》からは想像もできない、凜然《りんぜん》とした大音声《だいおんじよう》が、浅見をたじろがせた。 「僕は東京からきた、浅見という者で……」 「やっぱりそうか、東京からつけてきよったがか」  浅見は老人の言葉が理解できなかったが、すさまじい敵意と身の危険だけは認識できたから、慌てて言った。 「あの、役場の安春さんから聞いてきたのですが……」 「安春が?……、ほんまか? おい、佐和、電話してみい」  土間の奥にいるらしい娘に命じた。浅見は堵《ほ》っとして、帽子を脱ごうと手を上げかけた。 「動くでねえ!」  老人は怒鳴った。浅見は中途半端な姿勢のまま、動けなくなった。時間経過がおそろしく長く感じた。歩いてきたための汗か、それとも冷や汗なのか、額を伝うものが目に滲《し》みて困った。 「安春さんが教えたそうよ、警察の人ですって」  娘の声が聞こえた。しかし老人は警戒を解かない。 「警察だと? 警察の者《もん》が、なんで悪さする? 佐和、駐在に電話して、早よこい、言うてやれ!」  誤解されているらしいことが、浅見にもようやく分かった。弁解は難しそうだ。観念して駐在を待つにしくはない、と、浅見は腹をくくった。それからがさらに長い時間だった。気がつくと、いつのまにか背後に村人たちが集まりはじめている。いよいよ進退谷《しんたいきわ》まったな、と、浅見はしかし、苦笑することもできなかった。  駐在巡査は50�の古びたバイクを駆ってやってきた。小太りで目が小さく、迫力に欠ける巡査だ。「どないしたんかの」という声にも張りがなく、この場の異様な雰囲気に対しては、いささか説得力が乏しい。 「この者《もん》がよ、警察の者じゃ言うちょるが」  老人は浅見を睨み据えたまま、言った。 「警察の?……」  巡査は浅見の顔を覗きこむようにして、「ほんまでっか?」と訊いた。 「いや、警察の人間ではありません」 「しかし、あんた、先刻《さつき》、警察の人、言うたでしょうに」  いつのまに来たのか、背後から稲田安春吏員の声があがった。 「そうは言ってません、警察関係かとおっしゃったので、そのようなものとお答えしただけです」  首を半分ねじ曲げて、浅見は言った。 「官名詐称でっか?」  巡査は犯人を見る目付きになっている。村人たちの敵意を背負っているだけに、厳しいポーズを示さなければならない。 「ことと次第によっては、緊急逮捕する」 「弱ったな、官名詐称なんかしていませんよ。僕は私立探偵のようなことをしているので、そういう意味で言っただけです」 「私立探偵? なら、身分証明証があるでしょう」 「そんなもの、ありません」 「そら、おかしいわ。とにかく駐在所へきてもらおうかの」  巡査は浅見の腕を把《と》り、傍の青年に「バイク、頼むわ」と言って歩きだした。浅見は不本意だったが、ともあれ草刈り鎌の恐怖から解放されたことは確かだ。村人たちはゾロゾロ随《つ》いてくる。「手錠、嵌《は》めんのか」などと面白半分に言う者もある。歓迎すべき事態ではないけれど、浅見にはこういうハプニングを楽しむ茶目っ気もあるから、それほど悲劇的なとらえ方はしていなかった。  駐在所は村へ入って二つ目のバス停の近くにあった。巡査は浅見と老人と娘を中に入れ、残りの野次馬はガラス戸の外に閉め出した。 「あんた、東京からずっと、この娘をつけてきたそうやないか」  浅見の住所、氏名を聴取すると、巡査はいかめしい顔をつくって詰問した。 「とんでもない、彼女に会ったのは、高知からの列車の中が最初ですよ」 「どないね? 佐和ちゃん」 「よう分かりません、高知からは間違いないのやけど、昨夜《ゆうべ》の船の中の人とは別の人かもしれません」 「昨夜?」と浅見は娘を見た。 「あなたは昨夜の船で高知へ渡ってきたのですか?」  娘はこっくりと頷いた。 「大阪からフェリーで……」 「それならはっきりしていますよ」  浅見はようやく明るい笑顔になった。 「僕は東京からの船で昨日《きのう》の四時頃、高知に着き、一泊したのですから。そうだ、嘘だと思うのなら、高知県警に問い合わせてみてください。昨日、ちょっと挨拶に寄ってきましたから」 「県警へ?……」  巡査は意表を衝かれた。 「県警の、どこへ行かれたんですか?」 「吉野本部長にお会いしました」 「本部長……」  化物でも見るような眼で、浅見をしげしげ眺めた。 「吉野さんは僕の兄と同期で、大学も同じだったものですから、子供の頃からいろいろお世話になったのです」 「あの……」と、巡査は生唾《なまつば》を呑みこんだ。 「では、浅見さんのお兄さんも、やはり警察に……」 「ええ、警察庁の方におります」  巡査の額から、急に汗が噴き出した。県警本部長と学校が同じで、しかも警察庁勤務とくれば、どういう立場の人物であるかは想像に難くない。 「いやあ、さようでありましたか、これはどうも、とんだ失礼をしたようですなあ」  皺《しわ》くちゃのハンカチで汗を拭《ふ》き拭き、立ち上がった。 「おやじさんよ、こりゃあ、あんたらの方が間違っとるで。浅見さんはそんなことをなさるお人ではないよ。お詫《わ》び申し上げんといかんな」 「いや、お詫びだなんて、そんな」  浅見は照れて、眼の前で手を振った。 「失礼はお互い様ですから、僕はぜんぜん気にしてません。それより、もしお許し願えるなら、稲田さんに、教由さんのことをお訊きしたいのです」 「教由のこと?」  稲田広信は状況の変化にとまどっているところへ、さらに意外なことを切り出され、口をあんぐり開けた。  長男・信隆の急死と、それに続く、次男・教由の不慮の死を語る時、稲田広信は涙にくれ、しばらくは口もきけない様子だった。草刈り鎌を振りかぶった、古武士を思わせるような精悍さは影をひそめ、そこには老い耄《ぼ》れて涙もろくなった農夫の姿しかなかった。 「教由のことはとうに諦めておっただけに、あいつから、嫁を連れて帰るいうてきた時には夢ではないかと思うたがですよ。それが、あげなことになってしもうて、そんなことなら、音信不通のままでいてくれた方が、どんだけええか分からへん、思ったです。まったく、最後まで親不孝なヤツでした」 「そんなこと、言うてあげんとき」  孫娘の佐和が叱《しか》りつけるような口調で、言った。 「じいちゃんだって、優しい子ォじゃった、言うてたでないの」  佐和は言いながら、新しく淹《い》れてきたお茶を浅見の前に供した。警戒を解き、こうして身近で見ると、この娘のえもいわれぬ神秘的な美しさが、野の花が香るように伝わってくる——と、浅見はややうっとりした気分で佐和の横顔に見入っていた。  山家《やまが》の育ちである佐和が、きちんとした作法を習得する機会はなかったと思われる。確かに、茶を供す動作や口のきき方には、朴訥《ぼくとつ》を通り越して、粗野といってもいいほどの荒削《あらけず》りな面が出ている。それにもかかわらず、浅見は、彼女の底流に脈打つ、雅《みやび》やかで毅然《きぜん》とした本質の美しさに触れることができた。文句なしの美貌《びぼう》であり、野性を感じさせる、しなやかで強靭《きようじん》な姿態にも非の打ちどころはない。しかし、そういう外見上のことより、内側の深いところにある、おそらく彼女自身すらその存在に気付いていないであろう�財産�に、浅見は魂を吸い取られるような感動を覚えた。 「その優しさがアダになったがよ」  老人が吐き捨てるように言った言葉のはげしさで、浅見はわれに返った。 「当山の倅《せがれ》に同情さえしなければ、教由は家を出ることはなかったんじゃ」 「でも、その当山さんていう人も亡くなってしもうたのやから、もうええでがよ。みんな昔のこと。いつまでも怨《うら》んだらいかんわ」  祖父に対するというよりも、頑迷で聞き分けのない幼児を諭《さと》すような言い方であった。老人の方も、素直《すなお》に「うん、うん」と頷いている。佐和が席を外すと、囁《ささや》くように、 「あれには母親の血ばかりが受け継がれておりましてな、祖父《じい》の口から言うのもなんだが、従わにゃならんようなとこがあるとですよ」  苦笑した表情には孫娘への愛情のほかに、何か虔《おそ》れの色のようなものが浮かんだ。 「佐和さんのお母さんというのは、どういう方なのですか」  浅見はその不審を、すぐにぶつけた。 「佐和の母親は、稲田一族の総本家の人間ですがの」  老人は、誇らしさとはにかみを、交々《こもごも》、感じさせる言い方をした。 「あんたさんは気ィ付かれなんだか、この村の入口《とばくち》に社《やしろ》があるだが、それが、われら稲田姓の者たちの総本家でしてな。寿永四年、壇《だん》の浦《うら》の戦に敗れ、この地へ流れ着いた集団の頭領・稲田|朝臣信忠《あそんのぶただ》の直系ですわ。世が世なれば、われらにとっては主《あるじ》筋にあたるわけで、なんぼ、百姓に身をやつしたいうても、気持ちの上では平家一門の誇りを忘れんでおられる、まあ、いうたら柱のようなもんですかいの。昔やったら、とてものこと、ありえんことじゃが、ありがたいことに倅《せがれ》の信隆に、三人いやはった女子《おなご》の末の、真奈《まな》さんを頂戴できることになって、……あれは、教由が家を出た翌《あく》る年の末やったか、そうして産まれたんが佐和ですのじゃ。けんど、真奈さんは体の弱い女子で、佐和が小学校二年の時に身罷《みまか》りましての、わしら、なるべく百姓仕事はさせんようにしとったのじゃが、定命《じようみよう》とはいえ、つらいことでありました……」  老人は明らかに、息子の嫁を主家の息女という感覚でとらえている。その血が顕《あら》われた佐和に対してもなお、敬虔《けいけん》な想いを抱きつづける旧弊《きゆうへい》を、しかし、浅見は、嗤《わら》うよりむしろ新鮮といっていいほどの様式美として受けとめた。滅びようとして亡びきれなかった平家の執念が、エレクトロニクス万能の現代に、その微《かす》かな芽を息づかせていることは、まさに驚きそのものだった。  佐和自身が、そういうおのれの立場を意識しているのかどうか、浅見には推し量《はか》ることはできなかった。佐和の挙措《きよそ》は万事、のびやかで、おおらかで、こだわるところがない。おそらく、自分の美しさにも気付かぬまま、育ったのではないかと思えた。 (この娘は、恋を知っているのだろうか——)と考え及んだ時、浅見は気持ちが波立ち騒ぐのを覚えて、狼狽《ろうばい》した。 「ところで、教由さんがこの村を出ていかれたのは、昭和三十四年の五月、ということでしたね」  浅見は話題を変えた。 「それ以来、教由さんからは全然、連絡がなかったのですか」 「ああ、ほとんど、ない、いうてもええようなもんですな。出ていきおってしばらくは、行く先々から葉書を寄越したけんど、じきにこんようになってしもうて……」 「その頃はまだ、当山さんと一緒に行動していたのでしょうか」 「そういうことですの」 「それは、どの辺からの便りだったか、憶えておられませんか。そして、いつ頃のことだったか……」 「そりゃ、分かります。そん時の葉書が残っとりますけんの」 「えっ、ほんとうですか、それを拝見するわけにはいきませんか」 「構いまへん、どうぞ見てやってください」  老人は物入れの中から小さな木箱を取り出してきて、蓋《ふた》を開けた。紙の色も変わった古い葉書が数葉、現われた。文字がすべて鉛筆書きであることが、当時の教由少年の生活を実感させた。  文面はいずれも、近況と元気でいることを伝え、不孝の詫《わ》びごとをつづったものだ。第一信から第五信までが大阪とその周辺の住所のもので、第六信は奈良の消印が捺《お》してあった。 〈いま、奈良にいます。大阪の仕事はやめました。タロちゃんと相談して、名古屋へ行くことにしました。のんびり見物しながら行きます。奈良には鹿《しか》がたくさんいます。タロちゃんが鹿のエサを買って、鹿にやらずに食べたら、鹿に追いかけられました。とても元気ですから心配しないで下さい。うんと働いてお金を儲《もう》けて帰ります。父ちゃんと兄ちゃんによろしく。さようなら〉  宛先《あてさき》は他のものもそうだが、〈稲田まさ様〉になっている。「わしの女房《かか》で、真奈さんが亡くなってから三年目に、死によりました」と、広信老人は説明した。  第七信は亀山《かめやま》局の消印だ。 〈昨夜、泊めてもらった家のおばさんが、母ちゃんにそっくりなので、急に会いたくなりました。でも僕は涙をこらえて頑張ります。タロちゃんはいい人です。僕のことをいつも気にかけてくれています。二人でお金をかせいで、藤ノ川へ帰ろう、と張り切っています。体を大切にして下さい。さようなら〉  そして、最後の第八信は桑名《くわな》の消印で、日付は九月二十六日、であった。 〈昨日、四日市《よつかいち》で泊まり、いま桑名市というところにいます。この辺は工場が多く、空気がきたないです。頭が痛くなります。名古屋はこんなでなければいいと思います。大阪よりもどこよりも藤ノ川がいいです。うんと働いて、早く藤ノ川へ帰ろうと、タロちゃんと話しました。その日を楽しみにしていて下さい。明日はいよいよ名古屋です。仕事が決まったら手紙書きます。秋になると母ちゃんはかぜを引きやすいから、気をつけて下さい。さようなら〉  読み了《お》えて、浅見はあやうく涙が出そうになった。素朴な文面の、行間から滲《にじ》み出てくる切々とした望郷の想いがたまらなかった。  二人の少年が大阪から名古屋までヒッチハイクをしたというのは、〈見物しながら——〉と書かれているような物見遊山の気分ではないことぐらい、容易に察しがつく。青雲の志を抱いて、というには、あまりにも切羽つまった、ぎりぎりの情況であったろうことがしのばれて、空腹の辛さや、足のマメの痛みさえ伝わってくるような気がした。 「これが最後の便りになったのですか?」  かろうじて理性をとりとめ、浅見は、訊《き》いた。 「はい、さようです」  老人はその一葉を手にとって、うっすらと涙を浮かべている。 「これから二十年間、音沙汰《おとさた》なしになりました」 「それが、二年前にとつぜんお便りがあったのですね? それはここにはありませんか」  老人は黙って立っていって、隣の部屋の仏壇から、封書を手にして戻ってきた。     3 〈私もどうやら一人前になり、お金をもうけることもできました。これからはいままでの親不孝を少しでも償いたいと思います。一昨年結婚した妻を連れ、近く、藤ノ川へ帰ります。父上や、そして、まだ会ったこともない佐和さんにも、これから先は決して苦労をかけませんので、よろしくお願いします。 敬具    四月二十日 教由拝   父上様〉  前の八通の葉書との間には、二十一年の隔りがある。短い文面の上に、流れ去った歳月の重みがあった。大阪から名古屋まで、仔犬《こいぬ》のように陽気でいじらしい旅をした少年の俤《おもかげ》はすでになく、生活力を備えた、重厚で、どこか陰鬱《いんうつ》でさえある中年の�おとこ�の姿が、彷彿《ほうふつ》とする。その空白の二十余年は、稲田教由にとってどのような人生だったのだろう。 「それにしても」と、浅見は言った。 「二十年以上ものあいだ、教由さんが音信を絶やしていたのは、なぜなのでしょう?」 「さあ、わしには分かりませんなあ、何か悪い事でもやらかして、刑務所に入っとったんではないか、思っちょります」 「いや、そんなはずはありませんよ。それならそれで、こちらの方に何らかの連絡がありますからね」 「そうでなければ、暴力団に引き込まれて、どうもならんようになっとったか。それとも、どこぞの工事現場に押し込められとったか、なんにしても、いまとなってはどうでもええこつですがの」 「しかし、かりにそういうことだとしても、二十年というのはいかにも長すぎます。それに、あれほど頻繁《ひんぱん》に手紙を出していた教由さんが、とつぜん、プッツリと音信不通になったのは、ただごととは思えません、よほど、何か重大な出来事に遭遇したとしか考えられません。たとえば、教由さんの人生観そのものを一変させるような、何か、です」  浅見はふと、『レ・ミゼラブル』の主人公を連想した。ほんの小さなアクシデントが、以後の人生を思いもよらぬ方向に押し流してしまうことは、さほど珍しくはない。昭和三十四年九月の末を境に、稲田教由の身の上には、得体の知れぬ巨大な不可抗力がふりかかり、まったく想像もできないような世界へ踏み迷うことになったのではあるまいか。  老人と若い客のあいだに、しばらく沈黙が流れた。教由の過去にそれぞれの想いを馳《は》せている。  陽がまわって、西側の窓から射し込む光線が、畳に細く落ちた。薄暗い部屋の中で、そこだけが眩《まぶ》しい光のスペースは、一個の生命体のように、ちろちろと蠢《うごめ》きながら成長してゆく。  背後に気配を感じて浅見が振り向くと、佐和がひっそりと端座していた。 「佐和さんが東京へいらした目的は、教由さんの奥さんに会うことだったのですか?」  バスの中で聞きかじった知識を、浅見は確かめた。 「ええ」と佐和は答え、「でも、会えませんでした」と続けた。 「会えなかった、というのは、どういう理由《わけ》ですか。住所が分からなかったとか?……」 「住所は変わっていましたけど、調べてすぐ分かりました。住所だけでなく、名前も結婚前の苗字に戻っていたんです。多岐川萌子さんていうて……」 「多岐川……」  浅見は視線を宙に向けて模索した。どこかで出会ったことがある名前のような気がする。しかし、結局、思いつかず、質問をつづけた。 「そこまで分かっていて会えなかったというのは、どうしてですか」 「訪ねて行っても留守だったり、電話すると、忙しいとか言って、でも……」  佐和は眉《まゆ》を曇らせて、少しうつむいた。 「でも、何ですか」 「その人、会いたくなかったのではないかしら。なんだか、私を避けていたみたい……」 「避けていた?……。何か、避けなければならない理由《わけ》でもあるのでしょうか」 「さあ、分かりません。私はただ、会って叔父さんのことを聞いて、それから、お礼が言いたかっただけなのに……」  ねえ、という眼で、祖父を見た。 「そうじゃがの、そのために佐和をはるばる東京までやったのに、なんで会《お》うてくれんのか、さっぱり分からんで」  老人は苦い顔をした。 「その、おっしゃりたかった�お礼�とは、どういうことだったのですか」 「それは……」  言いかけて、佐和は、ためらい、また祖父の意思をうかがった。「ええじゃろう」と老人は頷《うなず》いてみせた。 「それは、お金を送ってくれたことに対してのお礼です。叔父さんの遺産だとかで、一千万円も送ってくれたんです」 「一千万……」 「ええ、たいへんな金額でしょう? だから、ちゃんとお礼をしようと思ったのに……」 「ずいぶん気前のいい方ですねえ」  稲田教由は二億円近い保険に入っていた。それに較べれば、一千万円といえども、驚くべき金額ではないかもしれない。しかし、単独なものとして考えれば、一千万は確かにかなりの金である。そして、法律上、父親や姪《めい》に分与しなければならぬいわれはない。そういう意味からいえば、「気前がいい」という感想は、至極、常識的だ。しかし、と浅見は首を捻《ひね》った。 「そんなにいい人が、現実には赤の他人とはいえ、かつて自分の夫であった教由さんの姪御さんを避けたというのは、まったく腑《ふ》に落ちませんねえ」 「都会の者は、冷たいからの」  言い放ってから、広信老人はバツの悪そうな顔になった。 「いや、あなたさんがそうとは言いませんがの」 「おっしゃるとおりかもしれませんよ」  浅見は笑ってみせた。 「都会では、みんな死に物狂いです。他人を蹴落《けお》とさないと、自分がやられると思い込んでいる人も少なくありませんからね。そして、次第に孤独になり、他人を信じられなくなる。しかし、もし、かりに教由さんの奥さんがそういう人だとすると、一千万円を送ってくれた優しさは何だったのか、ということになります」 「でも……」と、佐和は鋭い調子で言った。 「優しい人だというなら、叔父さんが亡くなったことを報《し》らせる手紙ひとつ、くれなかったのはなぜですか。私たちが叔父さんの死を知ったのは、ずうっと後《あと》になってからで、お葬式をしたのかどうか、お寺はどこに祀《まつ》ったのかも知らないんです。そういうことも訊きたかったし、お参りもしたかったのに……」 「なるほど」  浅見は粛然とした。 「考えてみると、教由さんが亡くなった時、せっかく高知まできていながら、こちらに寄らずに帰ったというのも、ちょっとおかしいですね。ふつうなら、愛する夫が生まれた故郷を、ひと目見ようとするでしょうに」  過去にとらわれない、クールな女として理解しようとすると、一千万円のプレゼントの説明がつかない。浅見の胸の裡《うち》に、多岐川萌子という女性への謎《なぞ》が、急速に膨《ふく》らんでいった。 「東京へ帰ったら、一度、その方に会ってみましょう。教由さんの過去のことや、実際、佐和さんを避けていたのかどうか、そういう疑問をはっきりさせて、ご連絡しますよ」 「そうしてもらえれば、ありがたいの」  老人は縋《すが》るような眸《め》を向けた。「それと、寺のことも訊いてくだされ」 「分かりました。かならず、お約束します」  浅見は時計を見た。うそ寒い山風の吹く時刻になっていた。 「今日は、泊まってくれるのでしょう?」  佐和が、はしゃいだ声を出した。 「いえ、来る途中に寿荘というのがありましたから、あそこに泊まります」 「でも、バスがもう、ありません」 「えっ……」  浅見は驚いた。しかし、それにも増して、老人は大きく目を見開いて、驚きの色を見せていた。それが何を意味するものなのか、その時点では、浅見は気付かなかった。  やむなく、浅見はこの家に厄介をかけることに決め、佐和はいそいそと夕餉《ゆうげ》の支度にかかった。広信老人は、不得要領な表情で黙りこくり、むやみと、囲炉裏《いろり》に柴《しば》をくべていた。会話がやむと、遠い川音と、弱々しい蛙《かえる》の声、囲炉裏火《いろりび》のはぜる音などが、びっくりするほど鮮明に聴こえる。都会の喧騒《けんそう》に馴《な》らされた耳は、より多くの音源を求めて、空間を模索しているように思えた。 「あんたさんは、お歳《とし》はなんぼですかの」  遠慮がちに、老人が訊いた。 「三十三です」 「ほう、そんなになりなさるか。そんでは、お子たちも?」 「いえ……」  浅見は照れた。 「だらしがない話ですが、まだ独り者です」 「そうかの……」  老人はいよいよ、憂わしげである。ひとしきり間《ま》を置いてから、「佐和は、十九になりよります」と言った。  台所で、何かの音がした。その音で、浅見は、それまで佐和が息をひそめていたらしい気配を、察知した。一種の気まずさが漂っている。「はあ、そうですか……」と、間の抜けた頃になって、浅見は答えた。 「佐和には妙なところがありまして」  老人は、極端に低い声で言った。 「先のことが、よう分かったりします」 「予知能力、ということですか?」 「ヨチ?……」 「つまり、一種の千里眼といいますか、予言ができる……」 「さあ、どうですかなあ、そんな大袈裟《おおげさ》なものではないかしれんが、あれの父親が病院で死んだ時も、報《し》らせがくる前に、分かっちょりました。母親の時もそうじゃったということですが、そん時はわしは病院の方におったで、ようは知りませんがの」 「分かる、というのは、どういうふうに?……」 「夜中に、寝とったのが、とつぜん起き上がって、『父さんが、死ぬ』言うてな……。母親の真奈さんにも、ちょっとそういうところがあったそうで、やはり血筋かな、思いよるのです」  それだけ言うと、老人は席を立った。何が言いたかったのか、浅見の胸に余韻が残った。  夕餉が済むと、山家の夜は早いのか、八時過ぎには床がのべられた。  さして広いとも思えないのに、特別に客用として備えてあるのか、四畳半のきれいな部屋が浅見にあてがわれた。横になってはみたものの、夜更かしが習慣になっている浅見は、なかなか眠りにつけなかった。旅先で思いがけないことが起こるのには慣れているつもりだが、今回のような経験は、かつてない。吉野が言っていた�ロマンス�が、まんざら絵空事とも思えなくなってきた。稲田佐和が自分にとって特別な存在になりそうな予感が、時間の経過とともに強くなる。 (十四も歳の開いた娘だぜ——)と、自ら嗤《わら》い捨てようとしても、まといつく想いは払えない。  闇《やみ》の底でじっとしていると、ひとつ屋根の下にいる娘の息づかいがひそやかにしのび寄ってくるような幻覚を感じる。  浅見は輾転《てんてん》としながら、いつのまにか眠り、何かストーリーの分からない夢を見た。  翌朝、食事の合い間に、佐和が「峠《とうげ》へ登ってみませんか」と言い出した。 「往復三時間ぐらいです。海が見えます」 「いいですね、連れていってくれますか」 「ええ」  嬉《うれ》しそうに頷き、「いいわね」と祖父の意志を確かめた。広信老人は憂鬱そうに、黙って小さく頷いてみせた。  峠への道は、最後にきつい九十九折《つづらおり》の急坂があるけれど、全体としては、のどかな気分で歩くことができた。左右は丈の低い灌木《かんぼく》が疎《まば》らに生えた薄《すすき》の原である。しかし、注意してみると、原のそこかしこに太い切株が朽ちかけている。 「この山も、昔は檜《ひのき》の森だったそうです」  佐和が解説した。 「その森に分け入って、山を越え、藤ノ川へ逃げてきたのが、私たちの祖先。だから、いまでも、この道が絶えないように、村の者は皆、月に何度かはこの峠を越えるのです」  一時間あまりで峠に立った。おだやかな南風が反対側の谷から吹き上げてくる。 「あの遠く突き出した半島の先端が、足摺岬《あしずりみさき》です」  指さす彼方に、僅かながら球形にカーブを描いた水平線が望める。 「そこに見える町が中村」  佐和は歌うような声を出した。息を呑《の》むほど壮大なパノラマであった。  南海特有のエメラルドグリーンに染まった太平洋と、アンジュレーションに富んだ南四国の海岸線。幾重にも連なる山襞《やまひだ》。頼りなげに寄り添う家々。そして、野放図に明るい四月の空。 「いいなあ……」  浅見はようやく、言った。自分の保有する語彙《ごい》を洗いざらいかき集めても、それに勝る表現はみつかりそうになかった。 「よかった」  浅見の汗ばんだ顔を斜めに見上げて、佐和は嬉しそうに、言った。  振り返ると、ささやかな盆地の底の集落が、世の中からとり残されたように、ひっそりと息づいている。 「確かに、隠れ里だなあ」  浅見は言った。 「八百年の昔、この峠を越えて、あそこに里を拓《ひら》いたというのが、実感として分かりますよ。その子孫があなただということも、厳粛な事実なんだなあ」  歴史が単なる時間経過の所産でなく、生きとし生ける者たちの血脈の系譜として、きちんと過去と現在とを繋《つな》ぐものであることを、浅見はいまさらのように、思った。  正午に出るバスで、浅見は帰途についた。佐和がバス停まで送ってきて、椎茸の入った籠《かご》を土産《みやげ》にくれた。  停留所の前の店に時刻表が貼《は》り出されているのを、何気なく見て、浅見は「あれ?」と言った。上り最終バスの時間は、午後七時。昨日、佐和が言ったのより、一時間以上も遅い時間だ。  あの時の広信老人の複雑な表情を、浅見は思い出した。佐和がどういう意図で嘘《うそ》をついたのか——。  睨むように覗《のぞ》き込む浅見の視線の前で、佐和は首を竦《すく》め、いたずらっぽく笑った。その瞬間、浅見は、このまま別れたくない想いが衝《つ》きあげてくるのを感じた。 「また逢《あ》えるといいな」 「逢えます」  佐和はあっさり、断言した。よほどの確信があるのか、別れを惜しむ風情など、毛ほども見せなかった。 第四章 高慢な蝶     1  多岐川萌子が住む『ドルチェ南青山』は、青山《あおやま》通りを青山学院前で折れ、高樹《たかぎ》町方向へ向かう通称『骨董《こつとう》通り』に面して建っていた。レンガ風にタイルを貼《は》った、十二階建ての瀟洒《しようしや》なマンションである。『骨董通り』は、その名が示すとおり、骨董を扱う店の多い街並だ。マンションの斜《はす》向かいには美術館のある根津《ねづ》公園が深い緑を湛えていて、環境もよく、まず、都心の一等地といっていい。  萌子は、このマンションが出来て間もない、一年前に、三階の2LDKの部屋を購入、移り住んできた。価格は四千八百万。2LDKは、いまやそう広過ぎるというほどのスペースではなくなっているけれど、独り暮らし、しかも都心のマンションということを勘案すれば、やはりなかなかの贅沢《ぜいたく》と言っていいだろう。それを萌子は、全額、キャッシュで支払っている。例の保険金が支払われてから、四か月後のことである。  そういうことを、浅見は順次、調べていった。しかし、肝心の多岐川萌子には、三度訪問して、三度とも会えず仕舞いであった。一度だけ、マンションの玄関前でねばっていて、それらしい女性が出てきたのに「多岐川さん」と呼びかけ、こちらを振り向かせたことがあったが、女性はすぐに、待たせてあったハイヤーに乗り込んで、走り去った。夕刻に近かったのと、ホステスという職業を聞いていたから、その女性が多岐川萌子である可能性が強い。もっとも、大金を手にした後、いつまでもホステスを続けているとも考えられないので、あるいは自分で店を経営しているのかもしれない。  浅見は萌子に会うことをひとまず諦め、彼女が以前、稲田教由と住んでいた南品川のアパートを訪ねてみた。京浜急行の駅を出て海岸方向へ三〇〇メートルほど歩いたその辺《あた》りは、南青山とは対照的に、古く貧しげなたたずまいであった。戦後まもなく建ったような木造モルタルの二階建てアパートの二階のとっかかりが稲田夫婦が住んでいた部屋で、萌子が引っ越していった去年の四月以降、いまだに空室のままだという。マンションの建てすぎで、住宅事情がすっかりよくなった昨今、このテのアパートの借り手が減少したところへもってきて、先住者が不慮の死を遂げたとなると、客のつく見込はないのだ、と、大家の婆さんは嘆いた。 「昔はね、この辺りから羽田《はねだ》近くまで、びっしり、江戸前の海苔《のり》が採れてね、そりゃ、あんた、賑やかなもんでしたよ」  婆さんは茶を勧め、下町言葉でよく喋《しやべ》る。近頃はこういう話をする相手にも恵まれていないのだそうだ。浅見は辛抱づよく、欲求不満の相手をつとめてから、稲田夫婦のことをほじくり出した。 「あのご夫婦は、おかしな人たちでしたよ」と婆さんは、のっけから不快感を露《あら》わにした。 「四年前でしたっけかね、ご亭主の方がひとりで引っ越してきて、それからまもなく、奥さんが一緒に住むようになったんですけどね、ご亭主の方は昼間はどこかへ遊びに行っちまうみたいだし、奥さんは夜の仕事っていうわけで、なんだか、いつもいたりいなかったりみたいな夫婦でね、あたしゃ、あんた、ハナの内は同棲《どうせい》してるのかしらって思ったんだけど、あとで聞いてみると、ちゃんと籍は入っていたっていうし、それにしちゃ、仲睦《なかむつ》まじいって感じじゃないしさ、それでも、まあ夫婦|喧嘩《げんか》して物を壊《こわ》されるよりゃマシかしらって思ったりしてたんだけど、やっぱし、あんなことになっちまってさあ、なんか、そんなことになるんじゃないかっていう気はしていたんですよねえ」 「稲田教由さんというのは、どういう方だったのです?」 「どういうって訊かれても、それがさっぱり分からないのよ。なにしろあんた、最初に一回|挨拶《あいさつ》に来たっきりでさあ、あとはチラッと顔を見るくらいでしょ、不精髭《ぶしようひげ》なんか生やしちゃって、ブスッとした顔で、こっちから声をかけたって、せいぜい頭を下げるくらいが関の山なんだもの。その割に、奥さんの方はまだしも、愛想はあったわね。そう言ったって、とおりいっぺんぐらいのことしか話さないから、どういう人たちなのかなんてこと、説明も何もあったもんじゃないわさねえ」 「こちらへ越してくる前は、稲田さん、どこに住んでたかご存じないですか」 「それそれ、それなのよ、保険会社の調査員とかいう人が調べにきて、同じこと訊かれたんだけど、あたしゃ知らないし、区役所で訊いたらって、そう言ったらね、役所でもよく分かんないんですって。どうもね、住所不定だったんじゃないかって言ってましたよ」  保険会社の三田村調査員は、そのことについては触れなかった。それほど重要ではないということなのかもしれないが、浅見は妙に拘泥《こだわ》った。無職、住所不定——そんな男に惚《ほ》れるというのも、女心の不可解さ、と言ってしまえばそれまでだが、南青山で会ったあの女性が多岐川萌子だとすれば、とても、そんな得体の知れぬ風来坊と結婚するタイプには思えなかった。いや、あの女性でないにしても、大抵の女は敬遠しそうなものではないか。いったい、稲田教由と多岐川萌子の馴《な》れ初《そ》めとはどのようなもので、どのような合意に基づいて結婚に至ったのか、浅見は猛烈な好奇心が湧《わ》くのを覚えた。  そのあと、浅見は稲田夫婦が住んでいた部屋を見せてもらった。跫音《あしおと》がよく響く鉄製の階段を登って、三軒並んだ一番手前の部屋に入る。いわゆる1DKという形式の、典型的なアパートだ。浅見が上がり込み、壁や天井を見回していると、間欠的に部屋全体が揺れる。奥の畳敷《たたみじき》の部屋に入って窓を開けると、あいだに数軒の家並を挟んだ向こう側に、だだっ広い産業道路が走っているのが見えた。巨大なトレーラーが通過する時、その振動が伝わってくる。騒音も、相当なものだ。  浅見はふと、藤ノ川の静寂を想い、南青山の瀟洒なマンションを想い浮かべた。  稲田という人物のことはよく知らないけれど、銀座でホステスをやっているような萌子が、よく、こんなところで辛抱できたものだ、と思う。それも、金がないというのならともかく、十万を超すような保険料を払っていたくらいなのに、である。そんな余裕があるなら、もう少しマシな家に住めばよさそうなものではないか……。 (もしかすると——)と、浅見は思った。  稲田夫婦は、その保険料を払うために、住居費を節約する必要があったのではなかったか……。  いや、それは�夫婦�というより、萌子ひとりの意志と考えた方が当たっているかもしれない。なぜなら、稲田には、もともと収入がなかったのだから。 (なるほど、そういうわけか——)  浅見は、稲田夫婦が、この陋屋《ろうおく》を新居と定めた理由が納得できた。 「どうもありがとう、たいへん参考になりました」  浅見は婆さんに微笑みかけ、丁寧に頭を下げた。婆さんは部屋の鍵をかけながら、「誰か借り手がいたら、うんと安くしとくよ」と、しきりに言っていた。  区役所で稲田夫婦の転入前の住所を調べると、稲田教由は高知県幡多郡西土佐村藤ノ川——になっている。書類上で見るかぎりでは、教由はずっと藤ノ川に住んでいたことになる。だが、実際にはそうではない。二十年ものあいだ、教由は住所不定のままで生活してきたわけだ。法治国日本で、そういう人生が送れる、というのも、浅見にとっては驚異であった。  萌子の方は、渋谷区|桜ケ丘《さくらがおか》町からの転入だ。結婚と同時に品川区南品川のアパートの住所に新戸籍をつくった。そして、夫教由の死後、港区南青山の住所へ移動と同時に、転籍し、旧姓『多岐川』に戻している。まさに、地獄から天国へ、華麗なる転進を遂げたのだ。  その萌子とは、いぜん接触できない。はるばる上京してきた佐和が、諦めて、空しく帰らざるを得なかった事情も、浅見はやっと理解できた。確かに、萌子は過去とのつながりを絶とうとしているのだ。夫の不慮の最期を、�忌《いま》わしい�と思う気持ちも分からないではない。そういう不幸な記憶は拭《ぬぐ》い去りたいだろう。しかし、仮にも、わが夫と定めた者の遺族に、夫の死も報《し》らせず、法事を営んだ形跡もないというのはどういう理由によるものか。よしんば、萌子に、陋習《ろうしゆう》をわずらわしいものと思う主義があったとしても、彼女の両親や兄弟はまったく干渉しなかったのだろうか。  そこに考え及んだ時、浅見は、萌子に会えないのなら、彼女の肉親に会ってみよう、という発想が湧いた。その結果の産物として、浅見はまたしても、不可解な事実にぶつかることになったのだ。  萌子の結婚前の住所『渋谷区桜丘町——』は、萌子の生来の本籍地ではなかった。多岐川萌子は、静岡県|島田《しまだ》市から、本籍地をいったんそこに移してから結婚している。それはなんと、結婚のわずか半月前のことであった。 「なぜこんな面倒なことをしたのでしょうかねえ……」  区役所の戸籍係も首を捻《ひね》ったくらいだから、浅見にはいよいよ不可解だ。その翌日、矢も楯《たて》もたまらず、浅見は島田へ飛んだ。  東名高速を吉田《よしだ》インターで出て、北西へ一〇キロ、大井《おおい》川の長い橋を渡ったところが島田市だ。言うまでもなく、東海道五十三次の内、島田宿として知られた町である。東海道本線島田駅を中心に、いくぶん北側に偏して、都邑《とゆう》が展《ひろ》がっている。市街地の北の一角を、国道1号線が東西に貫き、多岐川萌子の本籍地『稲荷町』はその北側にあった。  街のすぐ裏手に緑濃い丘陵がせまっていて、人家もそれほど密集していない。国道の喧騒を少し離れさえすれば、住みやすそうな街であった。  多岐川家は、庭先に橘《たちばな》や桃などの果樹を庭木代わりに植えた、のどかな印象の旧家だ。しかし、仔細《しさい》に見ると、屋敷の軒端や土台柱あたりの傷《いた》みがひどく、内証《くらし》のつましい様子がうかがえる。  応対には六十歳前後の女が出た。浅見は稲田教由の友人——と名乗った。  女は困惑の色を浮かべた。 「稲田君の奥さんには、いろいろお世話になった者です。稲田君がああいうことになってしまって、一度、奥さんにその節のお礼を、と思っていたのですが、すでに引越されたあとでしたので、ご実家の方に戻っておられるのではないかと……、いえ、今日はたまたま、こちらの方を通りがかったものですから」 「萌子は、こちらには居《お》りませんです」 「はあ、そうですか。あの、失礼ですが、萌子さんのお母さんですか」 「はい」 「すると、萌子さんは現在、どちらの方にお住まいですか」 「東京に居りますが」 「あ、そうでしたか。私はてっきりご実家に戻られたものとばかり思いました。でも、時々は帰省されることもあるのでしょうねえ」 「いいえ、めったに戻りません」  苦渋に満ちた言い方だったので、浅見は思わず、母親の顔を見直したほどだ。 「じつは、われわれの仲間で、稲田君がどういうきっかけで萌子さんのような美しい人を射止めたのか、話題になっていたのですが、お二人の馴れ初めについて、お母さんは何かお聞きになっておられませんか」 「いいえ、存じません。それに、稲田さんという方にも会ったことがないのです」 「えっ……」  演技でなく、浅見は驚いた。 「それはどういうことでしょうか。結婚式にご出席なさらなかったということですか」 「結婚式どころか、あなた、結婚したということさえ、ずいぶんあとになって知ったようなことでした。萌子は何も知らせてくれなかったのです。たまたま、あれの妹が戸籍謄本を取った時に、萌子が除籍していることが分かり、そこには、『婚姻のため』という文句が記入されていなかったので、ただ、何を考えているのか、と思っただけでしたが、その時はもう、とっくに結婚しておったのです。東京から保険会社の人がみえて、はじめて知りました」 「というと、それは稲田君が亡くなったあと、ということですか」 「はい、そうです」 「つまり、家の方には内緒で結婚したというわけですね」 「はい」 「それは怪《け》しからんですねえ、親不孝もはなはだしい」  浅見は、精一杯、義憤を示してみせた。 「萌子さんのような才女が、なぜそんなことをしたのでしょうかねえ」 「さあ、分かりませんけど、ああいう仕事をしておりましたから、男の方にいいように騙《だま》されて……、あ、あなたのお友達の悪口を言うつもりはないのですけれど……」 「いや、おっしゃるとおりかもしれませんよ。われわれにも、あの稲田君のような甲斐性《かいしよう》なしに、どうして萌子さんが、と、ずいぶん首をかしげる者が多いのです。やはり、萌子さんには、そういう思い切ったことをなさる素質があったということなのでしょうか」 「そうかもしれません。あれは、子供の頃からきかぬ気のところがありまして、それは、たしかに勉強もよく出来ましたけれど、人には負けたくない性質で、自分中心といいますか、一度、こうと思ったら、他人の言うことなど、耳を貸《か》さないような子でした。大学まで出してやったのに、島田には全然、寄り付こうとしないし、それに、なんでホステスなんかしなきゃならんのか、わたしらにはもう、てんで分からないことばかりで、情けないやら、腹が立つやらで……」  母親はしだいに気持ちが昂《たか》ぶって、涙を浮かべた。  それを汐《しお》に、浅見は礼を言って、多岐川家を出た。車を表通りに出したところに『輦台《れんだい》』という名の喫茶店があった。輦台とは大井の渡しで川人足たちが担《かつ》いだ、一種の乗り物である。浅見は珍しさに惹《ひ》かれ、車をガソリンスタンドに預けて、店に入った。  名前にふさわしく、宿場時代の遺物を飾った、雅味豊かな店だが、どういうわけか、壁にやたら、『K』という女優の写真やポスターが貼られているのが気になった。  ウェイトレスに理由《わけ》を訊くと、マスターが『K』の叔父にあたるのだそうだ。  コーヒーを飲み了《お》えてから、浅見はそのマスターに多岐川萌子のことを訊いてみた。 「多岐川さんの上の娘さんでしょう? よく知ってますよ、カヨちゃんの同級生でしたからね」  マスターは『K』のファーストネームを言った。 「高校の時、一緒に演劇部にいたんだけどね、多岐川さんの娘さんは、悪いけど、才能がなかったんじゃないかな。カヨちゃんだけが成功して、ずいぶん落ち込んじゃったみたいですよ。全然、島田に帰ってこないもんねえ」  陽気な顔の割には、辛辣《しんらつ》なことをポンポン言う。  狭い町で、人の口に戸が立てられないことを考え合わせると、多岐川萌子が郷里を敬遠している理由が納得できるような気が、浅見はした。  どういうわけか、浅見には、世間から悪《あ》しざまに言われる者に対して、無条件で同情してしまうような癖《へき》がある。誹謗《ひぼう》する側には、それなりの理由があることを承知していても、かえって、それに対する反論を�被害者�のために考えてやりたい衝動に駆《か》られたりもするのだ。  とりわけ、その人物が力関係において、相手より劣っている場合には、なおのこと、その傾向が強い。  こうした�優しさ�は、真実を見究める者にとっては、無用であり、時として、過誤につながりかねない弱点でもあるのだが、しかし、それがまた、浅見の美点のひとつであることも確かな事実であった。     2  結局のところ、犯罪事実は何もなかったのだ——という考えが、浅見の心の中にゆっくりと、しかし確実に擡頭《たいとう》しつつあった。これ以上、この事件を追いかける意味があるとは思えなくなっていた。  当山の死——。  犯罪の行なわれた可能性が最も強いのはこの部分だ、と浅見は信じている。警察があっさり、自殺と断定したことは、大いに不満だ。とはいっても、それを覆《くつがえ》すデータがあるわけでもなかった。 �事件�にのめり込んでから二十日を経過して、さすがの浅見も、倦《う》んだ。ともすれば退嬰《たいえい》しようとする浅見を、わずかに駆りたてるものは、藤ノ川を去る浅見を見送った、稲田佐和の縋《すが》りつくような眸《ひとみ》の記憶である。佐和のために、やるだけのことはやろう——という、ひどく消極的な義務感だけが、浅見の意欲を支えていた。  四月二十二日、浅見はかつて萌子が勤めていたという、銀座三丁目の『サルート』を訪れた。オフィスビルの地階にあるごく普通のクラブで、ピアノの弾き語りが入っているのが、銀座の店らしい高級感を漂わせている。  ボックスシートのあるフロアと壁で仕切られたカウンターに、浅見は席をとった。カウンターの中にはバーテンが二人いて、ホステスやボーイのオーダーを忙しげに捌《さば》いている。  浅見はスコッチの水割りを頼んだ。客の入りがいいせいか、女の子が浅見のところへまわってくるまで、だいぶ時間がかかりそうだった。 「多岐川萌子さんていう女性、いたね」  バーテンが手空きになったのを見すまして、浅見はさりげなく、訊いた。 「萌子さん?……、ああ、真弓さんのことですね。真弓さんはだいぶ前に、辞《や》めました」 「そう」 「お客さんは、真弓さんのお客さんだったのですか」 「うん、たまにだけどね。彼女にちょっと借りが残ったままになってたような気がしているのだけれど」 「ああ、それならもう、よろしいんじゃないですか、真弓さんはすごい大金が入って、自分でお店をはじめたそうですから」 「へえ、そうなの、分からないもんだねえ。彼女、まだ若いんだろ? パトロンでもみつけたのかな」 「いえ、ご亭主が亡くなって、何億だかの保険金が入ったのだそうですよ」 「何億?……」  話が大きくなっている、と、浅見はおかしかった。 「そいつはうまくやった、……なんて言っちゃいけないか」 「いいえ、私ら、みんなそう言ってますから。だって、結婚してたった二年で亡くなったんですよね。二年で何億も稼げるのなら、あたしも結婚しようかしら、なんていうコばっかりですよ。お悔《くや》みなんか言う者は一人もいなかったです」 「そいつはひどいね、オチオチ、嫁も貰えないな。保険かけて、殺されたんじゃ、やりきれない」  浅見は笑ってみせたが、バーテンは真顔で声をひそめ、「そんな噂《うわさ》もありましたよ」と言った。 「ご亭主は船から落ちて亡くなったんですけどね、あれは誰《だれ》かに突き落とされたんじゃないかなんて……」  バーテンの目がチラッと動いて、表情をとり繕《つくろ》った。 「ママがきます。いまの話はなかったことに……」  商売用の微笑に戻り、グラスを磨く手の動きがせわしくなった。 「いらっしゃいませ、こちら、お初めて?」 『ママ』という語感よりは、はるかに若いイメージの美女が隣の回転|椅子《いす》にのった。 「いや、だいぶ昔、一、二度お邪魔したことがあるけど、まあ初めてみたいなもんです」 「真弓さんのお客さんだったそうです」とバーテンが注釈を加えた。 「あらそうですの、真弓さん、やめちゃったんですのよ」 「らしいですね、いや、しかしお客さんと言われるほど親しかったわけじゃないし、正直言うと、あんまり好きなタイプじゃなかったから、どうでもいいんですよ」 「でしたらよかったわ、真弓さん、あまり評判よくなかったんですのよ。居ない人の悪口、言いたくはないけれど、店のコなんかとも付き合わないようなところがあって、自分だけよけりゃいいっていうような」  よほど腹に据《す》えかねるところがあるのか、ママは手厳しい批判を加えてから、「あらごめんなさい、変なおしゃべりして」と、セカンドバッグから名刺を出した。小さな女物の名刺に『取締役 田中恵美』とある。 「真弓さんも、お店の経営をはじめたそうじゃないですか」 「そうなんですの、ウチのお客様にも全部、案内状出したみたいですのよ。かないませんわ。でも、真弓さん自身があんなでしょ、ですから、皆さん、俺《おれ》、あっちへは行かないよっておっしゃってくださるの。お客さんも浮気なさらないでね」  お名刺くださる? と小首をかしげる様子は、いかにも商売上手だが、天性備わった稚《おさな》さが、嫌みを感じさせない。 「名刺は持たない主義だが、浅見といいます。浅く見るって書く」 「あら、ほんと? でも、お客さんの目、ずいぶん深いところまで見透しそうな感じがしますわ」  お世辞には違いないが、ドキッとするようなことを言う。 「あはは、やっぱりそんな風に見えるかな、じつは、僕は刑事なんだ」 「えっ、刑事さん?……、うそ、違うわね、刑事さんじゃないわ。でも、新聞記者かしら、それとも、いま流行《はやり》のレポーターかなあ」 「当たらずといえどもってとこかな、大会社のエリート社員には見えないのだろうねえ」 「ぜーんぜん、だって、こんなカッコいい人、いませんもの……」  恵美はいそいで背後を見渡した。差し障《さわ》りのある客がきているらしい。 「ところで、真弓さんの結婚相手だけど、そのお気の毒な方は、やはりお店のお客さんだったの?」 「それがね、よく分からないんですの。結婚したことだって、いつのまにかっていう感じでしたもの。私なんか、お店のお客さんに、あちこちの保険会社の方がいらして、ご主人を保険に入れるって話になって、はじめて知ったくらいなんですのよ。それにね、亡くなったあと、保険会社の調査員がみえて、あれこれ聞いていったんですけど、ご主人の顔を知りたくても写真がないんですって。だから、お客さんだかどうだか分からないって答えるしかないんですの」 「名前を聞いても、思い出せない?」 「ええ、稲田さんていうんですけどね、それらしいお客さん、思い当たらないんです」 「なんか、あまりパッとしない男性だったらしいけど、真弓さんていうのは、そういう趣味だったのかな」 「それなんですのよ、保険会社のお客さんが言ってたんですけどね、小説家志望だとかで、あまり働きのない人だったんですって。もちろんお金なんかもないし、小《ち》っちゃなアパート暮らしで、真弓さんも妙な相手を選んだもんだって。だいたい、真弓さんていう人は、しっかりしてて、いずれは独立するつもりで、ガッチリ残しているようなタイプだったもんですから、私なんかびっくりしちゃって、分かんないもんだなあって、皆《みんな》もそう言ってましたわ」 「そんな稼ぎのないようなご亭主に、どんどん保険をかけて、保険屋さんたちは変だと思わないのかねえ」 「構わないんですって、勧誘する方はそこまで考えてたらどうしようもないそうですわ。それに、真弓さんはずいぶん稼いでましたもの。保険会社も四社ぐらいに分けてたみたいで、そんなところもうまかったんじゃないかしら」 「うまかったっていうと、なんだか計画的みたいだね」 「あら、やだ、そういう意味じゃ……」  恵美は慌《あわ》てて打ち消したが、つい本音がポロリと出た感じではあった。  浅見はどうでもよさそうな口ぶりで、萌子の新しい店というのを訊き出した。恵美は少し気がかりな様子を見せながら、それでも、銀座七丁目裏の『女優』という名の店を教えてくれた。 『女優』とは変わった名だ、と浅見は思った。高校時代のライバルが女優になったことへの萌子の想いが、その名に託されているに違いない。そんなところにも、浅見は萌子という女の性格の一端がうかがえるような気がした。 「真弓さんについてたお客さんで、あっちの店の客に移ってしまった人もいるんだろうねえ」 「そりゃあ、いらっしゃると思いますわ。皆さん、ウチに見える時は、さっき言ったみたいに、おいしいことおっしゃってくださるけど、正直、ほんとのところは分かりませんものね。しかたのないことですわ」 「その中で、名前の分かるお客さんがいたら、教えてもらいたいのだが」  恵美は、妙なことを訊く——という顔になった。 「あの、そんなことお訊きになって、どうなさるの? まさか、本当に刑事さんじゃないんでしょうねえ」 「うん、刑事ではないが、じつはね、ここだけの話にしてほしいのだけれど、ちょっと真弓さんのことで調べたいことがあってね」 「じゃ、やっぱり、あの保険金のことですの?」  眼を輝かせた。萌子に対してよほど含むところがあるらしい。 「いいですわ、お教えします。でもね、そんなに多くないんですの。K生命の大和さん、B建設の阿部さん、S商事の川島さん……」  指折り数えていた恵美が、はっと胸を衝《つ》かれたような表情になった。 「そうそう、真弓さんのお客さんていえば、もう一人、変な亡くなり方をした人がいるんです。当山さんておっしゃって……」 「当山!?……」  浅見は心臓をもろに掴《つか》まれたようなショックを感じた。 「ええ、当山さんていう方で、短い期間でしたけど、よくお見えになってらして、真弓さんにだいぶお熱だったようですけど、真弓さんが結婚したとたん、バッタリ見えなくなって、その人が、たしか先月の中頃だったと思いますけど、高田馬場のマンションから落ちて亡くなったんです。なんだか自殺らしいって新聞に出てたもんだから、びっくりしましたわ。……あの、どうかなさいました?」 「いや……」  浅見は周章《あわ》てて水割りの残りを呷《あお》って、むせ返った。     3  当山林太郎と多岐川萌子に接点があった——。この事実は、それまで停滞していた浅見の好奇心と捜査意欲を一挙に燃え上がらせることになった。脳細胞という脳細胞が、なんだ、どうした、おかしいぞ、とばかりに走り出した。  稲田教由、萌子、当山の三人が、『しーふらわー号』に乗っていたという情況は、単なる偶然どころか、きわめて意図的であり、作為性に富んだものであるにおいが強くなった。  いったい、一昨年《おととし》の五月一日夜、『しーふらわー号』上の三人に何が起こったのか——。  それを考えるためには、まず、実際に犯罪が行なわれたと想定してかかる必要がある。浅見はこの事件を、多岐川萌子を軸にして行なわれた、保険金詐取と、それにまつわる殺人事件であると断定した。  常識的に浮かんでくる犯罪ストーリーは、当山と萌子が共謀して、稲田教由を犠牲《いけにえ》に、保険金をせしめた——という筋立てだ。誰でもが容易に思いつきそうなアイデアであり、現実に、これが最もありそうなストーリーだった。  だが、問題はいくつもある。  第一に、当山が幼馴染《おさななじ》みの教由を殺すというような、冷酷なことができただろうか、ということだ。  第二に、いくら金のためとはいえ、萌子が、殺すと決めた相手と結婚し、平然と夫婦生活を送ったというのは、あまりにも人間性に欠けたやり口として、抵抗を感じる。  第三に、これが最大の難点だが、『しーふらわー号』での犯行方法は、どのようなものであったのか、である。堀ノ内航海士は、悲鳴とほとんど同時に甲板《デツキ》に飛び出し、甲板上に人影のないことを確かめている。�犯人�には逃走の時間的余裕はなかったのだ。また、それ以前に、いくら酔っていたとはいえ、�犯人�に襲撃された教由が、抵抗もせず、声も立てず、やすやすと海中に放り込まれるとは考えにくい。唯一、考えられる可能性は、教由にたとえばLSDを服用させ、幻覚を起こして自ら海へ飛び込むようにしむけたということだが、しかし、堀ノ内の話によるかぎり、教由の様子からLSD等による幻覚症状があったとは考えられない。 (それにしても、当山はなぜ、那智勝浦《なちかつうら》で下船したのだろう——)  浅見はふと、そのことにひっかかった。そして、そこから、ほとんど瞬間的に、コペルニクス的発想の大転換が生じた。 (稲田教由は、死んではいないのではあるまいか——)  当山と萌子が稲田教由を殺さなかったものと仮定すれば、先に挙げた問題点はすべて解消する。そして、当山が那智勝浦で下船しなければならない必然性も理解できる。当山は�死んだ�稲田教由の肉体を、一刻も早く、船内から消滅させる必要があったのだ。当山の車のトランクに教由が身を潜めていた可能性は、充分、考えられた。  唯一の問題は、〈それでは�誰�が海へ落ちたのか?〉という謎を解明することだ。 『サルート』へ行った日から数えて三日目の午後、浅見は愛車を駆って晴海埠頭《はるみふとう》へ向かった。その日、午後二時四〇分入港予定の『しーふらわー号』に、堀ノ内が乗務している。埠頭に着いて待つ間もなく、『しーふらわー号』は純白の船体に描いた巨大で漫画的な太陽を海に浮かべながら、ゆったりと接岸した。浅見の張りつめた気持ちの中に、その時、淡い旅情とともに稲田佐和の面影が、すっと、しのび入った。  旅客の下船作業が完了するのを待って、浅見は走るようにして船内に入った。船内では次の航海に備えて、整備と清掃の作業が忙しく進められていた。  ロビーでしばらく待たされてから、制服姿の堀ノ内が、いまは義兄となった樋口甲板手を伴ってやってきた。簡単な挨拶を交して、すぐに本題に入ることにした。 「例の転落事故を再現したいのだ」  浅見の言葉に、堀ノ内は驚いた。 「再現、とは、どういうことだ?」 「まあ、説明はあとにして、とにかく現場へ行こう」  浅見は、むしろふたりを引っ張るように、先に立って歩いた。この前の航海で、船内の�地理�には詳しい。問題の転落事故現場である3F右舷|甲板《デツキ》に着くと、浅見は命令口調で言った。 「堀ノ内と樋口さんは、あの時、悲鳴を聴いた位置に立つこと。そして僕の悲鳴を聴いたら、あの時と同じスピードで�救け�にきてくれること。いいね」 「それはいいが、しかし、本当に飛び込むつもりじゃないだろうな」 「そんなこと、転落する前に断わるヤツがいるか」  浅見は笑った。「とにかく、言うとおりにしてくれ」  堀ノ内と樋口は首をかしげながら、甲板から船内に入り�定位置�に着いた。堀ノ内は甲板へ通じるドアを背に立ち、樋口は反対側のドアを入って数歩、こちらへ歩み寄った地点だ。なんだか、茶番劇を演じているようで、二人は苦笑した眼を見交わした。  とつぜん、浅見の悲鳴が起こった。悲鳴は堀ノ内の背後から海へ落ちる角度と方向性、距離感を示していた。 「ばかな!……」  堀ノ内は叫び、ドアを肩で押し開け、倒れ込むような姿勢で飛び出した。  浅見の姿はなかった。何もかも、あの夜の情況と同じだった。違うのは、波の音がないこと、エンジンの音がないこと。そして、悲鳴のあとに小さな水音がしたことだ。水音と同時に悲鳴は止んだ。  堀ノ内と樋口は、あいついで舷側《げんそく》に顔をつき出し、海面を覗き込んだ。 「何か、ありましたか」  背中を叩《たた》かれて、堀ノ内は振り向いた。目の前で、浅見光彦のいたずらっぽい顔が笑っていた。 「お、お、お前、どうして!?……」  それこそ悲鳴のような声を、堀ノ内はあげた。樋口も「あっ」と叫んだきり、痴呆《ちほう》のような口を開けている。まるで幽霊を見た顔であった。 「じつに簡単なトリックだが、これほど効果的だとは思わなかったよ」  浅見はうれしそうに笑った。 「ばかやろ」  堀ノ内は本気で憤《おこ》っていた。 「おどかしゃがって。どうやったんだ、説明しろ」 「そう憤るなよ。いま説明するが、その前に、どうだった、あの晩もこんな具合だったのかい」 「うん、そっくりだったな。どうだい?」  樋口を顧みる。「そっくりです」と、樋口も頷いた。 「手品の種はこれだよ」  浅見はポケットからマイクロテープコーダを取り出して、ボタンを押し空中に放り上げた。テープコーダが抛物《ほうぶつ》線の頂点から落下しはじめた時、とつぜん悲鳴が聴こえた。テープコーダが浅見の掌に戻っても、ボタンを押すまで、悲鳴は続いていた。 「僕はあそこの階段入口のところからこのテープコーダより少し精度の高いヤツを、ここの舷側の外側へ向けて投げたのだよ。二万八千円がところ、海へ捨てたわけだ。あの晩、稲田教由は堀ノ内と言葉を交わしたあと、堀ノ内がドアの中へ消えるのを見すまして、階段入口まで走り、いまやってみせたのと同じ手品を使ったに違いない。あの晩は、波の音なんかもあったし、ここでやるよりははるかにボロが出にくかったろう。そしてそのあと、ある人物の車のトランクに潜んで、那智勝浦で下船したというわけだ。かくて、乗客名簿から、確実に一名が不足することになった」 「それじゃ、おい、あのお客は死んだんじゃなかったのか……」  声が震えている。 「冗談じゃないぞ、もしそれが事実なら、えらいことだ。あのお客の死亡は認定されているし、そうだ、保険金も支払われたじゃないか」 「そうだ、重大な犯罪だ。しかし、幸か不幸か、現在のところ、そういう犯罪が行なわれたことを立証することはできない。いまやってみせた実験は、単に可能性があるという証明にしかならないからね」 「うーん……」  堀ノ内は情けない声で唸《うな》った。 「浅見もえらいことを考えてくれたものだよ。もしそれが本当だとすると、俺たちは犯罪の片棒をかついだことになる」 「手品師の側からいうと、たいへん質のいい観客だったわけだ」  浅見は複雑な想いでニヤニヤ笑った。自分が想像したとおりの結果が出たことは大満足だ。だが、それと同時に、次なる疑問が新たに生じたことも否定できない。それは、�生きている�稲田教由は、どこに潜伏しているのか、ということだ。せっかく大金をせしめたけれど、地下に潜ったまま、おおっぴらに金を使えない、というのでは間尺に合うまい。いちばん重要な役どころを演じながら、それがじつは、まるで損な役回りだったというのでは、道化もいいところである。 �手品�の成功によって、ひとつの仮説は成立したとはいえ、とても手放しで喜んでいられる情況ではなかった。  稲田教由のゆくえを本格的に探すとなると、それはもう、浅見という個人の力ではどうにもならない。警察当局の手に委ねるしかないことだ。だが、そうするためには教由の�生存�をさらに確度の高い事実として立証する必要があった。不確実な推論だけでは、警察は動いてくれない。たとえ殺されそうな予感をいだいても、�予感�だけではどうしようもない。予感どおりに殺されて、はじめて、警察は手をさしのべてくれる。警察とはそういうところだ。  稲田教由の追及は、一応のメドがつくまでは独力でやるしかない、と浅見は腹をくくった。だが、そう思った時、自分のしていることが悲劇的な結末につながりかねないことに、浅見は思い至った。教由が佐和の叔父であることをうっかりしていた。教由が�被害者�であるなら、遺族は同情の対象だが、一転して保険金詐取のメンバーだったとなると、あの老人と娘の立場はひどいことになる。大抵の場合、正義と残酷は微妙なところで表裏一体の関係にあるのだ。 (はたして自分は、あの娘の苦痛に耐えることができるだろうか——)  それを思うと、振り上げた鉾先《ほこさき》から力が失せるのを、浅見は感じた。しかし、そんな感傷以前の問題として、自分の推理が正しいかどうかを、まず確認しなければならない。浅見は、稲田教由の生存と死亡を、半分ずつ、祈った。  翌日、浅見は多岐川萌子の自宅に電話をかけた。午後二時過ぎから五十分以上にわたってダイアルを回しつづけ、そのつど、話し中音に撃退された。おそろしく長い電話だった。三時の時報を合図のように、電話が繋がった。今度はたっぷり呼び出し音を聴かされてから、受話器が取られ、いきなり、「しつこいわよ、ヨッちゃん!」と怒鳴られた。 「もしもし、多岐川さんのお宅ですか」  浅見は急いで話しかけ、自分が�ヨッちゃん�とは別人であることを証明した。 「あら、ごめんなさい」  うろたえた声で、「はい、多岐川ですが」と言った。浅見はいきなり、「稲田教由さんのことでお話ししたいのですが」と、ズバリ切り込んだ。  少し沈黙があった。 「どちらさんですか」 「浅見という者です」 「このあいだから、訪ねてきてる方じゃないんですか」 「いえ、違います」  浅見は嘘をついた。 「稲田の、どういうことをおっしゃりたいのかしら」 「稲田さんが生きている、というようなことについて、です」 「生きてる?……」  ちょっと間《ま》を置いて、萌子はフフフと笑った。 「そんな、ばかな……」 「稲田さんを見たという者がいるのですがねえ」 「どなたですの、その方」 「それは言えませんが、確かな人物です」 「だって、稲田は船から落ちて、警察の方でも死亡を認定しているんですよ」 「ところが、実際には、稲田さんは転落なんかしなかったという説があります。落ちたのはテープコーダ……」 「何ですって?」 「つまり、稲田さんは死んだふりをしたというわけです」  電話の向こうで思案している女の顔を想像しながら、浅見はしばらく待った。 「何が目的なの?」  萌子は開き直ったような声を出した。 「ただ、お会いしてお話を訊《き》きたいというだけです」 「話なら電話でも済むじゃない」 「しかし、こういう話は、なるべく他人に聞かれない方がいいのではないかと……」  喋りながら浅見は、自分がいっぱしの脅迫者になったような気分がしていた。 「分かったわ、じゃあ明日の二時にきてちょうだい」  言うと、一方的に電話を切った。浅見はやや、意外な気がした。こう、すんなり会ってくれるとは思っていなかった。 (罠《わな》かな——)  その可能性はある。しかしあのマンションの中で、殺されるようなこともあるまい、と楽観する気持ちもあった。そういう危険があるとすれば、第二回目の誘い出しの時だろう。この段階で、萌子にはまだ、罠を仕掛けるべく考えるチャンスはなかったはずだ。まあ、いざそうなったら、そうなった時の話だ——と、結局、浅見は八方破れの構えで臨むことにした。  翌日、約束の午後二時ピタリにチャイムを鳴らすと、萌子はすぐにドアを開けてくれた。 「やっぱり、あんただったのね」  無表情で言う。浅見の方も、(やっぱりあの女だったか——)と思った。いつかマンションの入口で見かけた女だ。年齢は三十前のはずだが、一見、三十代半ばといってよいほどの落ち着きがある。女教師を思わせるような、白いブラウスとブルーのタイトスカートのせいかもしれないが、この女の持っているしたたかさが、そのまま表われているといった方が当たっているように、浅見は思った。美貌《びぼう》といえば美貌には違いないが、可愛《かわい》げというものをまるで感じさせない女だ。もちろん、浅見に対する敵意を勘定に入れても、もともとが気位の高い性格なのだろう。女優になった同級生の話が、ふと思い浮かんだ。  2LDKの部屋のリビングは十畳分ぐらいの広さをもつ洋間で�女の館�には不似合いな革張りの応接セットが置かれている。 「どうぞ」と、そっけなく、萌子は椅子をすすめた。 「浅見です」と名乗ってから腰を下ろす。罠のにおいを嗅《か》ぎ取ろうとしてみたけれど、何も察知できなかった。 「それで、どういうことですって?」  萌子は長椅子に背を反らすように座り、浅見を見下す姿勢をとった。虚勢なのか、自信なのか、浅見は判断に窮した。 「電話でお話ししたように、稲田教由さんが生きているということについて、いろいろお話ししたいと思いましてね」 「稲田が生きているって、どこにいるんですか」 「それは、あなたの方がよくご存じじゃありませんか?」 「変なこと言うわねえ、私が知るはず、ないでしょう。あの人の遺体さえみつからなかったんですからね」 「死んでもいないのに、遺体があるわけはありません」 「あんたがそんなこと言ったって、とっくに死亡認定はされたのよ」 「そのとおりです。そして保険金も支払われました」  ふん、というように、萌子は笑った。 「やっぱりそうだったのね、あんた、保険金の分け前にでもあずかろうっていうんでしょう」 「分け前を出さなきゃならないような弱味でもあるんですか」 「そんなもの、あるわけないわ。でもね、私は面倒なことはいやなの。だから、多少のことで済むなら考えてもいいわよ。あんただって車代がかかってるんでしょうから」 「お気持ちはうれしいが、残念ながら、僕はそんなケチな目的できたわけじゃないのです」 「そう、それで気に入らないんじゃ、しようがないわね」  萌子はすっと立っていって、隣室のドアを引いた。目付の鋭い男が二人、現われた。ひとりは三十二、三歳、もうひとりは二十五、六歳といったところか。二人とも、スポーツシャツの上に背広といういでたちで、見るからに腕っ節が強そうだ。その若い方が、浅見の退路を遮断《しやだん》するように、玄関のドアの方向へ回りこんだ。 「こんなことだろうと思いましたよ」  浅見はわざと落ち着き払って、言った。 「僕の方も、こうして虎穴《こけつ》に入るからには、それなりの用意もしてありましてね、僕がもし、三十分以内にここから現われない場合には、警察が踏み込んでくることになっています」 「警察?……」  年長の方の男が驚いた声をあげ、他の二人と顔を見合わせた。 「そんなハッタリをかましたって、だめだ」 「ハッタリじゃありませんよ」 「じゃあ、どこの警察か言ってみろ」 「もちろん、所轄の麻布《あざぶ》署です」 「麻布署だと?……」  とつぜん、男は哄笑《こうしよう》した。若い方の男も、それに萌子までもが噴き出した。ここに至っても、浅見にはまだ事態が飲みこめなかった。  年長の男が、笑いの残る顔で一歩、浅見に近づき、内ポケットに手を入れた。思わず身構えた浅見の鼻先に、黒革の手帳がつきつけられた。 「麻布署の西本だ。捜査係長をつとめているが、あんた、どこの麻布署と付き合っているのかね」  浅見は両方の掌を頭の上に載せ、天井を睨んだ目を、ゆっくり閉じた。     4  手錠こそ嵌《は》められなかったが、二人の刑事は、完全に、浅見を�恐喝者�と見なして連行した。クリーム色の車に押し込まれ、左右から腕を把《つか》まれた恰好は、われながら見られた図ではない、と浅見は自嘲《じちよう》した。  それにしても、萌子がこともあろうに、警察官を待機させていたとは、まったく予期せぬ出来事であった。警察を介入させたということは、とりもなおさず、萌子の絶対的な自信を物語っている。浅見は、自分が根本的なところで重大な錯誤を犯していることを認めないわけにはいかなかった。つまり、稲田教由の死は動かしがたい事実なのだ。そうでなければ、萌子が浅見の追及に対して、毛ほども不安を見せなかった、あの強気の姿勢が説明できない。  しかし、もし稲田教由の死が事実だとすると、浅見が描いた�保険金詐取事件�の筋書は致命的なダメージを受けることになる。 (われ、敗れたり——)  窮屈な車に揺られ、刑事の汗くさいにおいを嗅《か》ぎながら、浅見はほとんど絶望的な気分に浸っていた。  麻布署に入ると、取調室に三十分ばかり放置されてから、尋問が始まった。氏名、本籍、現住所、生年月日と、型どおり人定尋問を了《お》えると、若い方の刑事がメモを持って取調室を出ていった。警視庁のコンピュータで前科の有無を照合するのだ。 「職業は?」と訊かれ、浅見は「ルポライターのようなことをやってます」と答え、もう一つの顔である�私立探偵�は伏せておいた。その方が、話がややこしくならなくて済みそうに思える。 「訴え出人、多岐川萌子さんの言うところによればだね、あんた、以前からだいぶしつこく彼女につきまとっていたそうじゃないの」  せいぜい浅見と同じ程度の年輩なのに、西本警部補は年寄りじみた声を出す。それは言わば、刑事に共通した、独特の�尋問調�とでも言うべきものだ。被疑者にナメられまいとする意識が、警察の歴史の中で積み重ねられ、磨かれ(?)、捜査技術のひとつとして定着した。 「つきまとったりはしていません」 「していませんて、多岐川さんはあんたに恐喝されたと言ってるよ」 「とんでもない、恐喝なんかしてませんよ。そのことは刑事さんだってご存じじゃありませんか」 「そうかね、見ようによっちゃ、恐喝と受け取れないこともないよ。俺と宮井君——もうひとりの刑事《デカ》だがね——二人が口を揃《そろ》えて恐喝行為があったとすりゃ、立派に送検できるんだよ」 「まさか、そんなことをすれば、逆に誣告《ぶこく》罪で告訴しますよ」 「生意気いうな!」  西本警部補は怒鳴った。怒鳴ることもテクニックのひとつと心得ている。それが証拠に、つぎの瞬間は笑顔をつくって、「あんたには犯意はなかったかもしれんがね、訴え出人に恐喝されたと感じさせたんだから、充分、容疑の対象になるんだよ」と、上目遣いに浅見の反応をうかがう。 「弱ったなあ……」  浅見は思ったままを言った。 「僕はただ、事実関係を確かめに行っただけですから」 「それじゃ訊くがね」  警部補は唇を舐《な》めた。 「あんた、多岐川萌子さんの死んだご主人が、本当は生きていると言ってたわけだが、それはどういう根拠でそんなことを言ったんだね」 「根拠というほどはっきりしたものがあるわけじゃありません。まあ、そういう可能性もある、ということで、言わば、話を聞き出すためのハッタリのようなものです」 「話を聞いてどうしようっていうの」 「いや、どうするって決まっているわけではありませんがね、多岐川さんは、あの若さで銀座のママであるわけですよ、その資金源というのが、ご主人にかけられていた二億円ばかりの保険金。となると、いろいろやっかみ半分で噂する人もいましてね、あれは保険金詐欺で、亭主は殺されたのだ、とか、いや、じつは生きているのだ、とか……」 「二億円、か……」  警部補もびっくりした顔になった。 「すごい金額だな」 「でしょう、ですからね、何か面白い週刊誌ネタになるのではないかと、そう思ったのですよ」  若い刑事が戻ってきた。メモに目を通すと、警部補は腕組みした姿勢を、少し反らせぎみにした。表情が和《やわ》らいでいる。 「そういうことなら犯意はなかったことになるが、一応、調書だけは取らせて貰いますよ」  刑事が用紙と、黒いカバーで綴《と》じた、かなり分厚くなっている調書の束をテーブルの上に置いた。まず、所定事項を書き込む。 「ええと、多岐川萌子さんの訴えにより、午後一時四〇分頃より同人宅に待機していたところ、と……」  西本警部補は、そういう癖なのか、ぶつぶつ呟きながら不器用そうにボールペンを走らせる。その手元を覗き込んでいた浅見の脳裡《のうり》に、とつぜん、電撃のようなショックが走った。 「そうか、調書だったか……」  思わず、声に出るのを、西本は不快そうにジロリと睨んだ。 「何か?」 「いえ……」  浅見は椅子を後ろに倒す勢いで、立ち上がった。 「ちょっと電話を借ります」  取調室を飛び出し、警ら課の机の上の電話を掴むと、戸塚署の番号を回した。逃げられると思った二人の刑事は、浅見の後ろで顔を見合わせている。 「はい、橋本ですが……」  刑事課長のダミ声が聴こえてきた。 「浅見です、しばらくです」 「やあ、あんたですか。例の事件、まだ追っかけてるんですかい」 「ええ、それで早速なのですが、当山林太郎が転落した時、女性の目撃者が二人いましたね」 「ああ、そうでしたな、それが何か?」 「そのひとりは管理人の奥さんだったと思いますが、もうひとりの方の女性ですがね、多岐川萌子っていう人じゃありませんか」 「多岐川……、そういえば、確かそんなような名前でしたな。調べてみましょうか」 「ええ、ぜひ」  橋本が調べるあいだが、やけに長く感じた。『多岐川萌子』という名に、どこかで出会ったような記憶があったのは、なんと、当山の事件調書の中だったのだ。その時は、ほんの視野の中を通過したような文字だったから、潜在意識の隅にひっかかっていた程度の記憶にしかならなかった。それが、いま、目の前でその名が調書に記入されるのを見て、愕然《がくぜん》と思い当たった。 「お待たせしました。やっぱりそうでしたよ、多岐川萌子でした」  橋本の悪声が、じつに快く、耳に響いた。 「どうもありがとうございました。あとでお邪魔して、説明します」  電話を切ってから、浅見は二人の刑事の手をつぎつぎに握って、「ありがとうございました」を連呼した。相手は面食らっているばかりだが、浅見にとっては、この�大発見�を与えてくれた恩人だ、その意味からいうと、当の萌子にも礼を言わなければならない。  一時間後、浅見は戸塚署にきている。調書を読み、橋本課長の説明を聞いて、事件と多岐川萌子の関わりを知るとともに、萌子が当山の�転落死�に重要な役割を果たしたことを確信した。  橋本刑事課長も、萌子が当山と親しい間柄であったばかりでなく、萌子の夫・稲田教由と当山が同郷、同年、しかも共に故郷を後にした仲だったと知って、仰天した。さらに教由の死にも保険金詐取の疑いがあると聞かされ、あまりにも一度に情報を詰め込まれたせいで、多少、混乱しながらも、初仕事を与えられた新米刑事ほどの昂奮《こうふん》を見せた。 「こりゃ、面白いことになりそうですな、ひさびさ、推理を要する事件に恵まれたっていうところです。近頃は単純な事件ばかりで、脳味噌《のうみそ》にカビが生えてますよ」  しかし、そうは言いながら、橋本は最初から浅見の才智と手腕をアテにしている。刑事課長といえば、どこの署でもおしなべて、身心ともにゴツく、見るからにおそろしげな男というのが通り相場だけれど、橋本は体の方はともかく、気のいい、陽気な性格だ。以前、知恵を借りて以来、すっかり浅見の才能に惚《ほ》れ込んでいた。  橋本の案内で、浅見は早速、問題のマンションを見に行った。夕方に近く、買物帰りの主婦や、塾通いの子供たちで、マンション前はけっこう人通りがある。 「あの時はもっと早い時刻で、この界隈《かいわい》がいちばん閑散とする時間でしたな」  橋本は弁解するような口調で言った。 「多岐川萌子はどこへ行くつもりで、ここを通りかかったのでしょうねえ」  橋の上に立ち、マンションを見上げながら、浅見は言った。そんなことはむろん、調書に記載されていない。萌子はあの場合、単なる通りすがりの目撃者にすぎなかった。つっこんだ追及をすることなど、思いも及ばぬことだったのだ。 「やはり、当山を訪ねるところだったのでしょうかな」 「管理人の奥さんは何か聞いているかもしれませんね」 「なるほど」  橋本は気軽に、自分で走って行って、管理人の妻を連れ出してきた。「この人は有名な探偵さんだから、質問には何でも答えてくださいよ」と言っている。 「早速ですが、あの時、この橋の上でお話ししていた相手の女性は、初めて見る人でしたか?」 「ええ、初めて会った人でしたよ」 「それで、話しかけたのはどちらからだったのです?」 「それは先方さんからですわ、私が買物に出かけようとした矢先に、ここで声をかけられたんです」 「何て言ったのでしょう」 「『あのお、ちょっとお尋ねしますけど』って……」 「何を訊かれたのですか」 「あら、何だったかしら……、いやだわ、歳のせいかしら、忘れっぽくなっちゃって」 「ああいう事件があったためでしょう。ショックで記憶がぼけるというのは、よくあることですよ」 「でもねえ……、あ、そうそう、たしか、高田馬場の駅へ行く道を訊かれたんだわ。それで教えてあげて、分かりましたねって……」 「そのあと、当山さんの転落するのを見たわけですね」 「ええ、そうなんです。その方がね、『あっ落ちる』って言うもんだから、びっくりして振り向くと、ウチのマンションから人が落ちるとこだったでしょう。もう、キモがつぶれるって、ああいうのをいうんですわね」 「当山さんが何階から落ちたか、その時、分かりましたか」 「はあ?……」  質問の意味が理解できなかったのは、橋本も同じだ。 「浅見さん、当山が落ちたのは十二階ですよ」 「しかし、奥さんは、十二階から落ちる瞬間は見ていないのでしょう?」 「ええ、そう言われれば、私が振り返った時は、当山さん、落ちる途中で、九階か八階か、その辺《あた》りだったから……」 「すると、十一階かもしれないし、十階かもしれない、というわけですね」 「でも、あの時、窓が開いてたのは当山さんのところだけだったし、あの女の人もそう言ってましたよ。窓から身を乗り出してくるところから見てたんですって」  調書にも、多岐川萌子のその言葉が記載されていた。そして、その言葉が当山の�自殺�を裏付ける決定的要因となっているのだ。 「十一階から九階まで、どの部屋も人が住んでいるのですね」 「ええ、全部が全部ってわけじゃありませんけど、端《はし》部屋は人気があるもので、売れ行きがいいんです。ただ、あの事件のあと、気味悪がって引越された方もいますけど……」 「それは何階ですか」 「十一階と、六階。事件の時、どちらのお宅も奥さんがいらして、救急車がきた時、下を見たんですって。それですっかりノイローゼぎみになっちゃって……」 「十階と九階には誰もいなかったのですか?」 「いいえ、やっぱり奥さんや子供さんはいらしたんですよ。でも、他の方は皆さん、平気だわっておっしゃって、それに、おいそれと引越すわけにもいきませんものねえ、せっかく買ったばかりのマンションですもの」 「えっ」と、浅見は聞き咎《とが》めた。 「このマンションは、できて間《ま》がないのですか?」 「去年の五月ですから、まだ一年経っていません」 「当山さんは、全額、キャッシュで払ったのではありませんか」 「さあ、そっちの方のことは私らには分からないですわ」 「たしか、現金で払ってます」と橋本が言った。 「当山氏には貯金とか現金とか、財産はたいしたことなかったが、この住居だけは大きな遺産になるんで、相続人を探す作業が続いているはずですよ」  浅見が少時、思案するのをとらえて、管理人の細君は、「もういいでしょう、お夕飯の支度しなきゃいけないから」と言った。 「どうもお世話さまでした、いずれまた、何かお訊きすることになりますが、その時もよろしく」  長身で好もしいタイプの浅見に、きちんと挨拶され、管理人夫人はまんざらでもない顔であった。 「やはり、当山はせしめた保険金でこのマンションを買ったのですかな」  橋本はすでに、浅見説を肯定するような口吻《こうふん》だ。 「三千万か四千万か、ともかく、分け前としちゃ、まあ妥当な金額ですか」 「でしょうね……」  浅見はもう一度、マンションを見上げた。いくぶん赤味を帯びてきた陽光に染まって建つ十二階建てのマンションは、集合住宅という実際の意味より、幾十もの財産の集合体であるというイメージの方を強く感じさせた。 「当山の死因をもう一度、洗い直すというのは、難しい作業なのでしょうねえ」  浅見は訊いた。 「うーん、すでに自殺と断定して灰にしちゃったですからなあ。ほとんど不可能ですな」 「しかし、情況証拠と周辺の物証を固めれば、捜査を再開する余地はあるのでしょう」 「そりゃ、むろんありますよ。私はもう、早速にでも始めるつもりです」 「問題は当山の死を他殺とする根拠を発見することですね。これまでのところでは、殺しの方法がどうしてもみつからない」 「さっき、十一階だの十階だのにこだわっていたのは、何か意味があるのでしょう」 「いや、単なる可能性の問題ですが、十二階から落ちたというのは見せかけであったかもしれないので、確かめてみたのです。しかし、あまり自信はありません。あの時は、たまたま、橋の上の二人しか目撃者がいなかったからいいようなものですが、いくら人通りの少ない時間といっても、他に目撃者が現われるチャンスはあるわけで、他の階や屋上から突き落としたとして、それを完全犯罪の方法とすることは、かなり無理だと思いますからね」 「たしかにそうですな。すると、やはり十二階の当山自身の部屋が犯行現場というわけですか。しかし、だとすると、密室殺人になりますぞ」 「それなんですよ。僕は警察の仕事にケチをつける気はありませんからね、事件直後の捜査で密室性は確認されているのでしょう。それは覆《くつがえ》らないと思うし……」 「なんの、なんの、われわれに気を使うことはありませんよ。浅見さんの流儀で現場を見れば、また何か知恵が浮かぶかもしれない。とにかく、一度、見てくださいよ」  橋本は察しがいい。浅見が警察の面子《めんつ》を慮《おもんぱか》っているのを、あっさり払拭《ふつしよく》してくれた。  管理人室で鍵《キー》を借り、エレベーターで十二階へ上がる。エレベーターホールから左右に分かれる廊下があり、廊下に面してドアが並んでいる。当山が住んでいた一二〇一号室はホールから三つ目の部屋だ。廊下側の開口部は、ドアとアルミサッシの窓。窓には防犯用の鉄格子が嵌《は》まっている。ドアを開けると半坪にも満たない三和土《たたき》がある。その向こうは三メートルほどの廊下で、右側にトイレと浴室のドア、左側にダイニングキッチンへ通じるドア、正面にリビングルームへ通じるドアがある。リビングルームとダイニングキッチンはカギ状につながった、いわゆるワンルームになっている。問題の窓はリビングルームの北東側の壁にある。リビングルームに入って右へ行くと日本間と洋間のドアがある。つまり、典型的な2LDKタイプで、広さも多岐川萌子のマンションと似たり寄ったりというところだろう。リビングルームと日本間の南東面は大きく開かれ、その外にベランダが設けられている。ベランダへ出るドアは二重ロック装置がついていて、もちろん、事件当時はロックされていた。 「やはり密室ですねえ」  ひとわたり部屋を調べて、浅見は言った。部屋の中はほぼ、事件以後、手を付けていないということで、冷蔵庫の中身などを捨てたほか、変わったところはないという。 「当山の鍵はここにあります」  橋本はリビングルームのサイドボードの抽出《ひきだ》しを開けてみせた。 「ここに二個入っていますが、事件当時は一個だけで、もう一個の方は、そこのソファーに背広の上衣《うわぎ》がありますが、そのポケットに入っていたのです」  浅見は鍵をひとつ取って、ソファーの上に脱ぎ捨てられたままになっている上衣のポケットに入れ、しばらくのあいだ眺めてみたが、別段のアイデアは浮かばない。 「どうなんでしょう、たとえば、トイレかバスルームに隠れていて、誰かが鍵を開けて入ってくるのと入れ違いに逃走した可能性はありませんか」 「いや、それはできなかったですな。鑑識の者が先頭で部屋へ入ったのだが、その際、見張りの者をドアの外に立たせましたからね」 「なるほど、さすが抜け目ありませんね」  お世辞を言ったけれど、あまりにも完璧《かんぺき》な密室状態に、いささかうんざりしていた。 「帰りましょうか」  窓の外にたちこめてきた夕闇《ゆうやみ》にせかされるように、浅見は元気なく言った。以心伝心、橋本も意気消沈して、浅見に随《したが》った。  玄関を出ようとして、浅見はふと、足を停めた。玄関のドアの脇《わき》、下駄箱の端の少し上の壁に新聞受があるのに気付いた。外壁の投入口は小さく、金属板で遮蔽《しやへい》されているので気にならないが、こうして内側から見ると、外から漏斗《じようご》状に拡がって、投入しやすくなっているために、いやでも目に止まる。浅見は外へ出て、受け口の金属板を押してみた。金属板はスプリングで外側へ押されていて、指で強く押してもせいぜい六〇度程度しか開かない。その透き間から中を覗《のぞ》くと、それでも、正面ドアの下半分あたりまでは見ることができた。 「あの事件の時も、集金にきたクラブのホステスが、いくらチャイムを鳴らしても応答がないもんで、そんなふうにして覗いたのだそうですよ。そしたら、リビングルームにチラッと人の動くような影が見えたので、頭にきて外から電話をかけた、と言ってました」  橋本の言葉を背中で聞きながら、浅見は腰をかがめ、新聞受に目を当てた姿勢で、「密室の謎《なぞ》が解けましたよ」と言った。 「ほうっ……」  橋本刑事課長は浅見にとって代わり、新聞受の穴を覗いた。左右に細長い視野の中に、玄関の床と、半開きになっている正面のドア、廊下の壁などが、それぞれ僅かずつ見える。あの事件の時と同じような情況だが、この風景の中に浅見が何を発見したのか、見当もつかなかった。 「これで、何か分かったのですか」 「ええ、たぶん……、しかし、一応実験してみないことには自信はありません。それに、かりに密室の謎が解けたとしても、実際に殺人が行なわれたかどうかは別問題です」 「それは確かに、そのとおりですな」 「それで、至急にやっていただきたいのは、指紋の採取です」 「ああ、それなら、すでにやりましたよ」 「いや、僕が言ってるのは、稲田教由が住んでいた南品川のアパートのことです。まだ空き室のままですから、どこかに稲田の指紋が残っているでしょう。それと、ここで採取した指紋を照合してみてください」 「稲田の指紋? というと、当山を殺した犯人は稲田、ですか」 「もし、この部屋から出た指紋に稲田のものがあれば、そういうことになります」 「しかし、殺しに関係なく、稲田が訪ねてきたということも考えられるでしょう。二人は幼馴染《おさななじ》みだったのですから」 「なるほど、それはありえないわけではありませんが、その場合でも、保険金詐取の事実があったことは立証されるわけです」 「ええと、ちょっと待ってくださいよ。稲田が現実に船から落ちたとして、それ以前にここへきていたという可能性もあるんじゃありませんか」 「困りましたねえ」  浅見は苦笑した。 「このマンションは、稲田が死んでから一年後に建ったのですよ」 「あ、そうか……、あはは、ばかだね……」  橋本はきまり悪そうに、照れ笑いをした。 第五章 愛と疑惑と     1  密室の謎解きと、指紋の照合という宿題を抱えて、二人は現場を離れた。その解答次第では、事件は重大性を帯びてくる。 �高田馬場コーポラス�を出る頃には、星が見えるほどの暗さになっていた。晩飯を誘う橋本を断わって真直ぐ帰宅する気になったのは、あるいは虫の知らせというヤツかもしれない。  浅見の家は北《きた》区|西ヶ原《にしがはら》にある。桜で有名な飛鳥山《あすかやま》公園に近い。国電の京浜東北線を王子《おうじ》で降りて飛鳥山を越えてゆくか、ひとつ手前の上中里《かみなかざと》で降りるか、どちらにしても似たような距離を歩くことになる。浅見は大抵の場合は車で動き回るけれど、駐車場探しに苦労しそうな仕事では電車を使う。そして、降りる駅は上中里に決めている。生まれ育って三十年も見慣れた風景だが、浅見は、上中里から西ヶ原にかけての一帯の街並が好きだ。おそらく、東京二十三区のどこよりも開発が立ち遅れていると思われるこの街には、旧《ふる》い東京のたたずまいが色濃く残っている。上中里駅から旧電車通りへ登ってゆくダラダラ坂の右側には、源頼朝を祀《まつ》る平塚《ひらつか》神社の宏大な境内が続く。境内入口の茶店『平塚亭』は江戸期からの歴史をもち、昔ながらの素朴な和菓子を商《あきな》っている。  浅見は『平塚亭』に寄って、串団子《くしだんご》を甘辛五本ずつ、買った。ここの団子を母親の雪江が好物で、母を籠絡《ろうらく》するにはこれに限った。この日、�籠絡�の必要性があったわけでもないのに、どういうわけか団子を買う気になったのは、虫の知らせの続きのようなものかもしれない。思いもかけぬ珍客が、浅見の帰宅を待ち侘《わ》びていたのだ。  門扉を開けてくれたお手伝いの須美子《すみこ》が、少し不安の入った声で、「あの、お客様ですけど」と言った。 「お客? 誰かな、堀ノ内かい」 「いえ、あの、女のお客様です」 「女?……」  即座に浮かんだのは多岐川萌子の顔である。早くも反撃してきたか、と緊張した。  玄関先に雪江が端座して迎えている。案の定、よくない兆候だ。浅見は手にした包みを差し出して、「お土産《みやげ》です」と機先を制した。「それはありがとう」と、雪江はにこりともしない。 「あなたにお客さんですよ」 「だそうですね、誰だろう」 「お若い女性の方です」 「何か、うるさいことでも言ってきましたか?」 「うるさいこと……って、光彦さん、何かそのような思い当たることがあるの?」 「いえ、ありませんよ」 「それなら結構ですけど、高知からにわかの上京とは、穏やかではありません」 「高知?……」  浅見は靴を脱ぎ捨てると、雪江の脇を駆け抜けて、応接間へ飛び込んだ。 「なんて不作法な、お客様は客間の方です」  母親の不機嫌な声に追われるように、和室へ走った。襖《ふすま》を開けると、稲田佐和の黒い大きな眸《ひとみ》がこっちを見ていた。 「やあ、君でしたか」  われになく、声がうわずった。万感胸にせまる、とは、このような状態をいうのだろう。いろいろあったはずの想いが、ひとつとして言葉にならない。  佐和は、ただ「ああ……」とだけ、言った。卓子の上の紅茶に手をつけた様子もないところを見ると、よほど緊張していたに違いない。 「どうしたんです、急に。連絡してくれれば迎えに出たのに」  浅見は向かいあって座り、照れ隠しに、少し詰《なじ》るような言い方をした。 「すみません」  藤ノ川での気丈さとは別人のように、佐和は気弱く涙ぐんだ。 「あ、いや、そうじゃなくて……」  浅見はうろたえた。 「僕は、早く、会いたかったと……」  はずみのように口を衝《つ》いた言葉だったけれど、それは確かな実感だ、と浅見は思った。しかし、そう思ったことで、まだ整理されていなかった、佐和に対する想いのかたちに、はっきり�思慕�という方向を、浅見は自ら与えることになった。  思慕は佐和の胸にもあふれている。長旅の緊張から解放された心の襞《ひだ》に、浅見のほんの短い言葉の優しさが貪欲《どんよく》に吸収され、とめどない涙になった。 「お邪魔しますよ」  開けたままの襖の陰で、雪江の声がした。佐和は膝の上で握りしめていたハンカチを、慌てて、顔に当てた。その様子に気付かぬふりを装って、雪江は二人を等分に見る位置に座った。 「光彦さん、ご紹介なさい」 「あ、こちら、稲田佐和さん。高知の取材でお世話になった家のお嬢さんです」 「まあ、そうでしたの、光彦の母でございます。先ほどは失礼」 「こちらこそ、とつぜんお邪魔して、失礼いたしました」  佐和は山家《やまが》育ちとも思えない、きちんとした挨拶《あいさつ》をした。いや、いまどきの都会の女などより、はるかに立派で、少し古風なほどの作法を見せた。それは浅見にとっても驚異だったが、雪江はそれにも増して意外だったらしく、頬《ほお》を緩《ゆる》めて大きく頷《うなず》いてみせた。 「どういうお宅のお嬢さま?」  息子に向かって訊《き》いている。浅見は一瞬、答え方を模索してから、「平家一門の子孫です」と言った。職業や貧富より、家の系譜を重視する母の主義を忖度《そんたく》したのだ。 「まあ、平家の……」  予想どおりの効果だった。雪江は、正月には百人近い人間を集めてカルタ会を催すような家柄の育ちだから、源平藤橘《げんぺいとうきつ》などという苗字には神秘的なあこがれを持っている。それまでは、ただの闖入者《ちんにゆうしや》でしかなかった佐和を、一転して、息子の好もしい相手として認知した。 「光彦さん、お夕飯はまだなのでしょう。佐和さんは五時前からお待ちよ。さあ、あちらでご一緒になさいな。私もお相伴《しようばん》します」  少し薬が効きすぎたかな、と浅見に思わせるほど、若やいだ声を出した。  結局、佐和はその夜、雪江の希望で浅見家に泊まることになった。佐和の祖先が「朝臣《あそん》」であると知って、雪江はいよいよ感激したというわけだ。  食事のあと、まだまだ尾を引きそうな母の関心から佐和を引き離して、浅見は応接間に二人だけの場をつくった。 「こんどの上京の目的は、やはり、叔父さんのことですか」 「ええ、祖父の言いつけで、あの、三回忌ですので、お寺のことや遺品のことを、はっきりさせたいのです」 「そうですか、三回忌ですか……」  その稲田教由の生存を信じ、犯罪者として追及しようとしている自分の、微妙な立場を浅見は思った。 「あの、浅見さんは、多岐川萌子さんには会えたのですか」 「ええ、会うには会いましたが、しかし、ちょっと気まずいことになりましてね、君やお祖父《じい》さんが希望されていたような話の内容にはならなかったのです」 「気まずいこと、というと……」 「かんたんに言うと、僕が、彼女の気に障《さわ》るようなことを最初に持ち出したために、つむじを曲げられた、というようなところです」 「喧嘩《けんか》したのですか」 「まあ、そんなところです。しかし、あの人は、僕が想像していたより数段、したたかな女です。君が会えなかった理由《わけ》も分かりますよ。それに、むしろ会わない方がいいかもしれない。そういう人種です」 「喧嘩になるようなことって、何を言ったのですか」 「たいしたことではありませんよ」 「私にも言えないようなことなのですか」 「うーん、困ったな……」  迷ったあげく、浅見は思い切って言った。 「じつは、彼女にこう言ったのです。『稲田教由さんは生きている』ってね」  遅かれ早かれ、佐和はこのことを知らなければならないのだ。それなら、警察によって知らされるよりは、自分の口から説明しておいた方がショックも少ないだろう、と浅見は考えた。そして、もう一度、あらためて佐和に向き直って、言った。 「君の叔父さん、稲田教由さんは生きているかもしれません」  佐和はキョトンとして、リスのような眼を浅見に向けた。 「いきなり、こんなことを言い出すと、面食らうかもしれないが、あれからいろいろ調べている内に、そういう可能性が強くなってきたのです」 「それは、あの、どういう意味ですか」 「つまり、一昨年《おととし》の五月、『しーふらわー』で転落死したとされている叔父さんが、じつは死んでなかった、ということです」 「どこかで、救助されていたのですか」 「いや、そうではなくて、最初から、転落なんかしていなかったと考えられるのです」  佐和は眉《まゆ》をひそめた。頭脳をめまぐるしく回転させ、浅見の言葉の意味を理解しようと努めているのが分かる。 「それは、叔父が、死んだふりを装った、という意味ですか」  浅見は黙って頷いた。 「でも、何のために?……」 「それは、送られてきた遺産と、無縁ではないかもしれません」 「遺産?……」 「じつは、あの事故死によって、叔父さん、いや、叔父さんの妻であった多岐川萌子さんは、およそ二億円という保険金を受け取っているのです」 「二億円……、じゃあ、あれは保険金を貰《もら》うための詐欺だったのですか?」 「あくまでも仮定の段階ですが、その可能性が強いのです」 「どうしてそれが分かるのですか」  声が震えた。声ばかりか、佐和の躰《からだ》そのものが震えているのが分かった。 「正直なところ、僕の考えが百パーセント正しいと証明できるものはありません。しかし、充分に疑うに足るだけの材料はあるつもりです。いわゆる情況証拠というヤツです。たとえば、叔父さんと一緒に藤ノ川を出た、当山という人がいるのを知ってますね」 「はい」 「その当山氏は、先月の十五日に、住んでいるマンションから飛び降り自殺を遂げたのです」 「自殺……」 「そのことは後で詳しく説明しますが、じつは、稲田教由さんが転落した『しーふらわー号』に、どういうわけか、当山氏が乗り合わせていたことが、最近になって分かりました。しかも、無二の親友であった教由さんが死んだというのに、当山氏は一顧もせずに船を降りています。まあ、同じ船に乗っていることを知らなかったと言ってしまえばそれまでですが、いくら偶然でも、ちょっと不自然だと思いませんか」 「…………」 「それから、教由さんの奥さん、多岐川萌子さんは、結婚前から銀座の『サルート』というクラブに勤めていたのですが、なんと、その当山氏が彼女のお客さんであったことも分かりました。どうです、この二つの事実をつないだだけでも、犯罪ストーリーが考えられそうじゃありませんか」 「もしかしたら、その二人が共謀して、叔父を殺したのではありませんか?」 「そう、僕もまず、そう考えましたよ。ところが、『しーふらわー』の船員——これは僕の親友で、信用のおける人間ですが——彼に聴いたかぎりでは、どうしても物理的に、殺人は不可能なのです」  浅見は�転落死�があった時の、『しーふらわー』3F甲板《デツキ》上での堀ノ内や樋口の位置関係から、そういう結論が得られたことを説明した。 「ところで、次に、当山氏の自殺です。警察は、目撃者の話や、部屋が密室状態であったことなどから、いち早く自殺と断定したのですが、僕の調査で、実に意外なことが分かりました」  浅見は言葉を区切り、いいですか、と佐和の注意をうながしてから言った。 「当山氏の墜落を目撃した人物というのが、なんと、多岐川萌子さんだったのです」 「えっ……」  佐和は目を瞠《みは》った。 「これも偶然とするのは、少なからず抵抗がありますよね。それに、警察が自殺の根拠とした密室についても、ごくかんたんな方法で密室を破ることができるのです。警察がその方法に気付かなかったのは、おそらく多岐川萌子さんの証言を信用したためではないかと思うのですが、ともかく、当山氏の転落死が、もしも自殺や事故死でないとすると、萌子さんと誰かが組んで、当山氏を殺したと考えるしかありません」 「それが叔父だって言うのですか」 「叔父さんが生きているとすればそういうことになります」  残酷だったかなと、浅見は佐和の顔を見た。佐和は、窓の向こう側の闇《やみ》を見ている様子だった。その闇よりも暗い表情であった。 「僕がこう言ったからって、それが事実であるかどうかは、これからの警察の捜査を待たなければならない。もしかすると、僕の推理が間違っているかもしれませんよ」  詮《せん》のないことだと承知しながら、慰めを言った。 「うそ、だわ」  とつぜん、佐和は小さく、しかしはっきりと、呟《つぶや》いた。  浅見は愕《おどろ》いて、「うそ?」と、思わず非難するような声を発した。間違っているかもしれない、と言ったのは佐和への思い遣《や》りであって、自分の推理の正しさを信じていた。 「うそです」  佐和はもう一度、くり返してから、「叔父は生きていません」と言い切った。  目の色が変わっていた。藤ノ川で見た時と同じ、気の強い野性をむき出しにしたような娘が、そこにいた。それでいて、佐和の目の底には、深い悲しみの色も同居している。 「それじゃ、僕が言ったことは、でたらめだと言うの?」 「いいえ、そうは思いませんけど……」  佐和は眉をひそめ、小さくかぶりを振った。 「でも、叔父は生きていないということだけは、分かるんです」  浅見は憤《おこ》る気にもなれなかった。論理も何もない、駄々っ子と同じだ。 「君が叔父さんを悪人だと思いたくない気持ちは分かるけれど、事実関係を積み上げてゆけば、どうしても僕の考えが当たっていることになるでしょう」 「そうじゃないのです。浅見さんは勘違いしています」  佐和は、じれったそうに、言った。 「勘違いって、何が?」 「私は浅見さんの推理は正しいと思っています。それと、叔父が生きていないということは別なんです」 「ああ……」  浅見はようやく理解できた。 「そうか、すると、君は、事件は事件として、叔父さんもまた、死んでいるというのですね」 「ええ」 「叔父さんも殺された、ということ?」 「それは分かりません。ただなんとなく、叔父はもう、この世にいないという気がするだけですから」 「困ったな……」  浅見は苦笑した。どういうふうに言い回しを変えたところで、論理的でない点では同じことだ。ただ、奇妙なことに、浅見の思考の一部にも佐和の不条理に同調する部分があるように思えた。たえず気にかかっている�何か�の正体がそれなのかもしれない、という気がするのである。 �霊感人間�の佐和ならともかく、自分までが不条理の虜《とりこ》になってしまうのは具合が悪いし、そうなるはずはない、と確信している。  であれば、これまで経験してきたデータのどこかに、稲田教由の死を想定させる個所があったのだろうか。  浅見は、教由の�死のチャンス�をあれこれ思いめぐらしてみた。  しかし、論理的に教由の死を立証することは不可能のように思える。ただひとつあるとすれば、ほかならぬ、多岐川萌子の自信に満ちた態度である。教由の死が虚構であって、なおかつあれほどの自信が示せるものか。 「どうも、僕の推理より佐和さんの直感の方が強そうだね」 「すみません」  浅見の笑顔に出会って、佐和の躰《からだ》から緊張が抜けてゆくのが分かった。 「やはり、多岐川萌子さんに、会いに行きますか」 「はい」 「そう……」 「あの、会わない方がいいのでしょうか」 「そんなことを言う資格は僕にはないけれど、何となく、あの人に君を会わせたくない気がするのですよ。まるで異質な人間だし、君が傷つけられそうな予感がする」 「大丈夫です。私は割と気の強い方ですし、それに、一度は会わなければならないのですから」  佐和は快活に言ってみせている。 「そうですね。無理に止める気はないし、君の気持ち次第だから……、しかし、心配は心配だなあ……」  浅見の愁《うれ》わしげな様子を、佐和はフフフと笑った。 「そんなに心配しなくても、元は親戚《しんせき》同士なのですし、まさか殺されることはないと思いますけど」 「笑いごとじゃない。本当に心配しているのですよ」 「すみません、そのことは感謝しています」 「いや、慍《おこ》っているわけではないけど……」  浅見は苦笑して頭を掻《か》いた。ようやく気分がほぐれるのを感じた。 「藤ノ川はいいところですねえ、ぜひまた行ってみたい」 「ほんとですか、きてください、祖父も喜びます。あの、祖父が、浅見さんのこと、とてもいい人だって、言ってました」 「あなたは、どうなのです」 「え?……」  二人の眸がまともに交錯した。浅見の慍ったような表情と、佐和の不安げな表情とが、そのまま凍り付いたように、動かない。やがて佐和の方から視線を外し、吐息のような声で、「好きです」と言った。浅見は佐和の前まで行き、左右から両肩を挟むようにして立ち上がらせた。佐和はびっくりした眸で浅見を見上げた。ほとんど血の気の失せた青白い顔の中で、そこだけが別の生き物のようにかすかに震えている唇に、浅見はゆっくりと唇を重ねていった。     2  浅見が橋本刑事課長に示した意向を受け、戸塚署は直ちに行動を開始して、南品川のアパートから採取した指紋と当山の部屋のそれとを照合した。アパートの指紋採取を始めてみて、鑑識班はじきに、意図的な指紋消去が行なわれたことを認めざるをえなかった。単に拭《ふ》き掃除《そうじ》をしたというような生やさしいものでなく、ことにドアのノブの周辺、電灯のスイッチ付近などが念入りに磨かれた形跡があり、そのあとに付けられた指紋は、多岐川萌子のものが少しと、それ以外は大家の婆さんのものがほとんどだった。当然のことながら、什器《じゆうき》類が一切、運び出されているわけだから、採取すべき対象物そのものが少ない。  だが、周到さの中にも手抜かりというものはあるものだ。たった一個、身元不明の、男性のものと考えられる渦状紋が、台所の流しの上に取り付けられている戸棚の把手《とつて》の内側から採取された。  そして、その指紋とピタリ一致する指紋が、高田馬場コーポラスの当山の部屋からも、一個だけ、発見された。その貴重な一個は、なんとも不用意なことに、電話の受話器に鮮明に印されていた。 「電話に、ですか?……」  橋本からの連絡を受けた瞬間、浅見は驚くと同時に、事件当時、その部屋で�犯人�がどのように行動したか、そして密室トリックの方法がどのようなものであったかについての自分の仮説が、ある程度、裏付けられたと思った。 「やはり、稲田教由なる男は生きていたのですなあ」  橋本は、昂奮《こうふん》冷めやらず、といった感じで、熱っぽく喋《しやべ》った。 「いま、本庁の方と相談しまして、場合によっては指名手配にかけようか、という状況です」 「それはちょっと待ってください」  浅見は思わず、声高《こわだか》に制止した。佐和のことが頭をかすめた。佐和が東京に居るあいだは、教由を容疑者扱いにさせたくなかった。 「もう少し確かめておきたいこともありますし、それに……」  後に続く言葉がない。正当な理由など、何もないのだ。 「とにかく、オープンにするのだけは待ってください」 「そりゃ、浅見さんがそう言うなら、待ちますが、なるべく早い方がいいのですよ」 「分かってます。捜査の妨害をするわけではありません」  語るに落ちるような弁解までした。  佐和は一昨日《おととい》も昨日も多岐川萌子を訪ね、空しく帰ってきている。 「中にいることは分かっているのに、ドアの覗き穴から見て、開けてくれないのです」  一度は、留守番を頼まれただけだから、と断わられたという。四時近くまで粘って、その�留守番�が出てきたところを、「多岐川さんでしょう?」と声をかけたが、「いいえ、違います」と強引にシラを切られた。電話をかけると、「この電話は現在使われておりません」というコールが繰り返される。萌子はいよいよガードを固めたらしい。 「二十九日の祭日なら、夜も在宅のはずだから、必ずつかまるよ」と、浅見は慰めた。いよいよとなったら、麻布署の西本に頼み込んでみようというつもりはある。 「大丈夫です、その内、会ってくれます」  佐和は健気《けなげ》に言う。慣れない東京で心細いだろうな、と思いながら、ただ傍観しているしかないのが、浅見は歯がゆくてならなかった。  もっとも、その三日間、完全に無為に日を送ったわけではない。浅見は当山林太郎が経営していたコーヒー店の近所で、丹念な聞き込みをやっていた。  ところで、きわめて意外だったのは、当山の店の名が、なんと、『藤ノ川』だったことだ。それを橋本から聞いた時は、浅見は胸がつまるような衝撃を受けた。  稲田教由にしても萌子にしても、そして当山自身も、過去との繋がりを絶とうと、細心の努力をしているかに思える。それなのに、当山が店の名を『藤ノ川』としたところに、当山の言いがたき望郷の想いが、象徴的に表われている、と浅見は強く胸を搏《う》たれた。  当山は藤ノ川を忘れたわけではなかったのだ。それどころか、むしろ、藤ノ川で過ごした日々に万斛《ばんこく》の想いをこめて、およそコーヒー店にそぐわない屋号をつけている。 「まったく妙な名前をつけたもんだよねえ」 『藤ノ川』の定連だった、富岡という、一軒おいた隣の古本屋の主人は、そう言った。 「どういう言われ因縁があるんだって聞いてもね、タロちゃん——あ、タロちゃんてのは、ごく親しい定連のあいだでのマスターの通り名なんですよ——教えてくれないんだよね、ニヤニヤ笑ってばかりいてさ。こんな変な名じゃ、コーヒー屋かどうか分かんねえから、フリの客は来ないよって言ったんだけど、それでいいんだ、なんてね。もっとも、われわれ定連も、おかしな客が入ってムードを悪くされるのは望んじゃいないから、文句をつける筋合いじゃなかったんだけどね」 「『藤ノ川』というのは、当山さんの故郷の村の地名です。平家の落人《おちゆうど》部落なのですよ」 「へえー……、そうですか、平家のねえ。すると、タロちゃんは平家の末裔《まつえい》ってわけか。いや、そう言われてみると、なんとなく、そういう雰囲気はあったね。笑っていても、どこか、翳《かげ》があるような。いや、しかし、タロちゃんのあの雰囲気はそれだけが原因じゃないと思うな。あの人は、何か過去によほどつらいことがあったに違いないですよ。たとえば恋人に死なれたとかね。それも、心中のし損《そこな》いとか、ね。嫁さんを貰《もら》わなかったのは、そのせいかもしれない」  古本屋は、なかなか穿《うが》ったことを言う。 「当山さんは、その『藤ノ川』の二階に住んでいたのだそうですね」 「そうですよ、以前はね。タロちゃんが店を始めたのは、かれこれ十年ぐらい前だと思うけど、それ以来、ずっと二階に寝起きしてましたよ。ところが、去年、マンションなんか買っちゃってね、そんなに儲《もう》けてるって感じじゃなかったもんで、ちょっと無理したんじゃないかなあって思ったんだけど、ああいうことになったところをみると、やっぱり、相当、借金取りに責められたんじゃないんですかねえ」 「店の方に住んでいた頃、当山さんのところに友人らしい人が訪ねてきたようなことはありませんか」 「友人て、借金取りですか?」 「いや、ごく親しい感じの友人です」 「さあ、そんな人は現われなかったねえ。私なんか、かなり入り浸《びた》っていたクチだけど、タロちゃんにお客があったなんてことは、ありませんでしたよ。友だちっていえば、私も含めて、店の定連ぐらいなもんじゃないのかなあ。もっとも、あの店の客は変わり種が多くて、数から言うと早稲田の学生が多かったけど、どういうわけか女っ気は少なくて、哲学書を抱えて一人でやってくるようなのばかりでしたね。タロちゃんも無口な方だから、店の中はいつも静かでね、その陰気くさいところがなんともいいのですなあ。客が入ってきてもね、注文なんか聞かなくても顔を見れば、この客はグァテマラ、この客はキリマンジャロとか、分かっちゃって、黙っていてもちゃんとコーヒーが運ばれてくるような客ばかりでね。それが、いまは代が替わって、店の名が『カジノ』。テレビゲームなんか置いちゃって、学生ったって、マンガばかり読んでるような客でね、もう行く気はしませんよ。以前のお客は誰も行かなくなっちまったんじゃないですかねえ」  古本屋はよほど『藤ノ川』が懐かしいのか、訊きもしないことを、よく喋った。しかし、店を開く以前の当山のことについては、何も知らないということであった。  当山が過去と縁を切ろうとしていたことは明らかだ。竹馬の友である稲田教由との交友さえ絶っていたか、少なくとも、付き合いを他人の眼から隠していたとしか考えられない。  しかし、そのことと、店の名を『藤ノ川』としたことの矛盾はどう説明すればいいのだろう。  浅見は、問題は稲田教由の側にあるのではないか、と思った。  当山は曲がりなりにも、店を出し、しかも『藤ノ川』という因縁深い名をつけている。完全に社会の深層に隠れ潜んでいたというわけでもなさそうだ。  それに対して稲田は二十年ものあいだ身を潜め、浮上し結婚してから後も、ほとんど世間と接触しようとしなかった。しかも、そのあげくの果て、無二の親友であったはずの当山を殺害し、ふたたび地に潜った。  まさに、狂気の沙汰《さた》だ。  いったい、あの純情だった教由少年が恐るべき変貌《へんぼう》を遂げるにいたった原因は何なのか——。  浅見はその謎を解くためには、稲田教由の二十年という暗黒の過去の部分を解明するほかはない、と思った。何の前触れもなく、忽然《こつぜん》と潜行したのには、それなりの理由がなければならない。  藤ノ川の稲田広信老人は、その二十年というのは、教由が刑務所に入っていた期間ではないかなどと言っていた。しかし、もし何か犯罪を犯して警察の世話になるようなことがあれば、むしろその所在ははっきりしていただろう。当時、教由はまだ十六歳の少年である。  どういう犯罪であろうと、本籍地の保護者に警察が連絡してこないはずはないのだ。  浅見はそれよりも、むしろ、教由が重大犯罪を犯して潜伏行を続けていたと考える方が当たっていると思った。二十年という長さを考慮に入れると、少なくとも十五年の時効成立期間に該当するような犯罪が想像される。つまり、それは殺人——だ。  浅見は、稲田教由が故郷を出た直後から消息を絶つまで、つぎつぎに送った八通の葉書の最後の一通の文面を、おぼろげに憶えている。その便りで教由は「明日は名古屋——」と書いている。希望と不安に満ちた少年が、その時、確かに、そこに居た。 〈名古屋だ——〉と、浅見は思った。�存在�と�不在�の接点が名古屋にある、と思った。『昭和三十四年九月二十六日』と、浅見の手帳には教由の最後の葉書の日付が記入されている。その直後の名古屋市で、いったい何があったのか——。そして、そのことは二十余年を経て起きた事件と、どのように繋がっているのか——。  聞き込みの帰途、浅見は戸塚署に寄った。  橋本刑事課長は、浅見が密室の謎をどのように解いてみせるのか、大いに期待していた。いや、橋本にかぎらず、戸塚署の刑事課《デカベヤ》にいる連中の全員が、野次馬根性丸出しで、浅見の種明かしを見にゾロゾロ随《つ》いてきた。 「そんな、期待されるほどのものじゃありませんよ」  浅見は当惑した。正直なところ、彼等が本気で見学しようとしているのか、冷やかしのつもりなのか、判断がつきかねた。もし真剣に、つまり、本当にトリックに想到し得ないのだとすると、警察の捜査能力を疑わなければならない。ひょっとすると、何もかも承知の上で、�名探偵�であるところの自分に花を持たせようという魂胆なのではあるまいか、などと思ってしまうのだ。そんなふうに気を回すのは、やはり、どんな場合にも、兄・陽一郎の影を意識しているせいかもしれない。警察庁幹部の実弟——という立場は、いいにつけ悪いにつけ、正当な評価を与えられていないような、一種の僻《ひが》みを背負っていることだ。 「要するに、この密室のケースは、鍵《キー》を元の場所へ戻す方法さえ発見すればいいのですから……」  十人あまりの刑事が見守る中で、浅見は下手な奇術師のように、伏し目がちに�演技�を披露した。  ソファーの上に脱ぎ捨てられたカタチの上衣のポケットから鍵を取り出す。 「犯人は、といっても、実際に殺人が行なわれたと仮定してですが、当然、手袋を嵌《は》めて行動したと推定されます。事件のあった三月十五日は薄曇りで、いくぶん肌寒かったということですが、それでも手袋をするほどの陽気ではありません。したがって、犯人は室内に入ってから手袋をして犯行に及んだ——それも、入ってからそれほど間《ま》を置かずに——と考えられます。部屋の中の物に触れては指紋を消さなければなりませんから、自殺を偽装することができなくなる。また、当山氏にお茶などを出されても具合の悪いことになるわけで、それだけに、計画的に、迅速に行動し、立ち去らなければならなかったのです。  犯行は何か鈍器様のもので、頭部を一撃したと考えていいでしょう。凶器は持参したものを使ったか、あるいはこの部屋にあったものか、いずれにしても、犯行後、持ち去っています。  万事、思いどおりにことが運んだ中で、ただひとつ、犯人の思いもよらぬ邪魔が入っています。それは集金のために、ホステスの友杉範子が訪ねてきたことです。彼女はおそらく、犯人が当山氏を殴打した直後ぐらいのタイミングで、チャイムを鳴らしたものと考えられます。犯人はさぞ慌《あわ》てたことでしょう。この時点では、当山氏はまだ死んでいないのですから、応答しないというのは不自然だし、さりとて顔を見せるわけにはいかない。しかし、幸運なことに、友杉範子は�居留守�を使われたと判断して、外から電話をかけたのです。犯人が電話の相手を彼女だと知っていたわけではありませんが、相手が誰であれ、これは当山氏の自殺を裏打ちするための絶好のチャンスだったのですから、反射的に受話器を把り、『自殺する』というような意味の言葉を口走ってみせたわけです。  ところが、このために犯人はとり返しのつかないミスを犯すことになりました。それは、受話器に指紋を残してしまったということです」 「しかし、浅見さん、犯人は手袋を嵌めていたのじゃありませんか?」  橋本が疑問を挿《はさ》んだ。 「そのとおりです。しかし、この時は手袋をしていなかった。なぜかというと、犯人はその時、密室工作の細かい作業に没頭していたからです。あとでご覧に入れますが、その作業は、手袋をしていては到底、できるようなものではありません。全神経を作業に集中していた時に電話がかかってきたために、思わず素手で受話器を把《つか》むことになったということもあるかもしれません。  すぐにそのミスに気付いたけれど、それを拭《ふ》き消すわけにはいかない。そこで、犯人は自分の指紋の上に当山氏の指紋が重なるように、当山氏の手に受話器を押し当てたと思われます。いかがですか、その点は?」 「そのとおりですよ」  橋本は感に堪えぬと言わんばかりに、首を振った。 「鑑識の話では、最後に受話器を把んだのは当山の左手で、問題の稲田教由の指紋はその下に一部、残っていたのだそうです」 「やはり、そうでしたか」  浅見は満足そうに、頷いた。 「さて、密室工作の準備が完了したところで、犯人は窓を開け、余計な目撃者のいないことを確かめてから、当山氏を頭から突っ込むような姿勢で、窓の外へ突き落としたのです。窓は小さいものですし、室内は暗く、目撃されたとしても、瞬間的には突き落とされたものか、飛び込んだものか、判断できなかったとは考えられますが、そうであっても、余計な目撃者などはいない方が望ましいには違いありません。  ただし、当山氏の転落が�自殺�であると立証してくれる目撃者はぜひ必要だった。その役割を担《にな》ったのが、その時、偶然、橋の上で管理人の奥さんに道を尋ねていた女性・多岐川萌子です。もしかすると、萌子は、当山氏の部屋の窓が開くのを合図に、相手構わず通行人に話しかける手筈《てはず》になっていたのかもしれません」 「なるほど、おみごとです」  橋本はいよいよオーバーに賞讃する。そうなると、浅見はかえって、本気かどうか疑いたくなってくるのだが、橋本にしてみれば、純粋に浅見に対する敬意を表現しているにすぎないのだ。 「情況としては、まったく申し分ありませんよ。そういう犯行が行なわれた様子が目に見えるようです。しかし、問題は密室です。浅見さんが言うように、本当に密室工作が可能なのかどうか、ぜひお手並を拝見したいものですな」 「そうですね、やってみましょう」  浅見は正直に、気のない顔になっている。ポケットから釣り用のナイロン糸が巻いてある糸巻きを取り出した。 「犯人が実際にはどんなものを使ったかは分かりませんが、自宅であれこれ実験してみた結果、どうも、これが具合がいいようです」  ソファーの上の上衣のポケットに、布地の外側から、ナイロン糸を突き刺した。 「このように、針を使わなくても突き通りますが、犯人が針を使ったとしても、結果は同じです」  ポケットの中を通してナイロン糸を引っ張り出し、鍵《キー》の頭の部分にある穴に通すと、ふたたびポケットの中に糸の先を入れ、前に通したところから一センチばかり離れたところを通して、布地の外側へ突き出した。 「これで準備完了です」  浅見は鍵と糸の先を指で挟み持ち、糸巻きの方は自分のポケットの中に戻して、玄関へ向かった。刑事たちはそのあとをゾロゾロ随《つ》いてゆく。糸巻きがポケットの中で回り、糸はどんどん伸びる。滑りのいいナイロン糸を使った理由が納得できる。  玄関までくると、浅見は糸に充分なアソビをもたせてから、新聞受の穴を通して、鍵も糸先も糸巻きも、廊下側へ落としてやった。  そうしておいて、ドアの外へ出る。全員が出きったところで、廊下に落ちている鍵を拾い、ロックした。 「これからが少し、厄介です」  浅見は新聞受にマッチ箱を挟んで隙間《すきま》をつくり、鍵を内側へ落とすと、糸先と糸巻側の両方を手繰《たぐ》った。鍵は室内の床に落ち、コトコトと小さな音をさせながら奥へ消えていった。  最後に少し強めに糸を引いて、感触を確かめてから、浅見は糸先の方を離し、糸巻き側の糸だけをどんどん手繰り、すっかり手繰り込んで、新聞受のマッチ箱を外した。 「終わりました。もう一度、中へ入って鍵の位置を確認してください」  スペアキーを持っている刑事が、慌てたようにドアを開けて、走り込んだ。 「ありました、ちゃんとポケットの中に入っています」  大声で叫んでいる。     3  麻布署の西本警部補は、存外、かんたんに浅見の頼みを引き受けてくれた。 「あんたには借りがありますからなあ」  西本は笑いながら言った。多岐川萌子の話を鵜呑《うの》みにして、浅見をしょっぴいたことに対して負い目を感じている。 「無理なお願いで、恐縮です」  浅見は丁重に頭を下げた。そういう負い目につけ込むのではないという気持ちを伝えたかった。  佐和が西本と一緒に多岐川萌子を訪ねたのは四月二十九日のことである。西本は前もって、訪問の目的を「先日の件の結果報告で」と伝えてあるから、萌子には断わる理由がなかった。 「一時過ぎに」という萌子の希望どおりにマンションに着いた。チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いて、愛想笑いを浮かべた萌子が顔を出した。  だが、西本の背後に半分隠れるようにしていた佐和を認めると、一転、険しい目付で不機嫌を露骨に示した。 「あら、あなたは、何?」 「稲田佐和です」  相手の女が、やはり先日の�留守番�と同一人物だと分かって腹立たしかったが、佐和はまるで初対面のように澄《す》ました挨拶をした。 「高知の藤ノ川からきました、教由叔父さんの姪《めい》です」 「困るわ、今日はあなたに会う暇がないの」 「いや」  西本が慌てて割って入った。 「じつは、この娘さんがぜひあんたに会いたいということでしてね、話を聞いてみると、遠いところをきたようだし、ちょっと会うぐらいはいいのじゃないかと思ってね。それに、あんたの亡くなったご亭主の姪御さんだそうじゃないですか。話ぐらい聞いても罰《ばち》は当たらないと思いますよ。それとも、何か具合の悪いことでもあるんですか?」  この前のことで、多少、業腹《ごうはら》に思っているので、西本は意地の悪い眼を作ってみせた。 「別に、具合の悪いことなんかありませんけど、私、昔のことは悪い夢だと思って、早く忘れたいんです。そのためには、それだけのことをしているでしょう」  萌子は例の一千万円のことを言っている。 「ええ、でも、お寺のことや、遺品のこともお聞きしたいのです」  また門前払いを食わされまいと、佐和は必死の想いをこめて、言った。 「まあ、とにかく中へ入れてくれませんか、ここじゃ話にならんでしょう」  西本は少し、強圧的なポーズを見せた。  萌子は舌打ちせんばかりの顔で、それでも玄関にスリッパを二足|揃《そろ》え、「どうぞ」と先に立った。 「いや、自分はここで失礼して、また改めてくるから、この娘さんのことはよろしく頼みますよ」  西本は佐和を押し込むようにすると、自分でドアを閉め、さっさと退却した。 「なあに、あの刑事」  萌子は吐き捨てるように、言った。一杯食わされた、ということが分かって、いよいよ腹を立てている。 「まあ、お座んなさいよ」  ソファーを示し、自分も肘掛椅子《ひじかけいす》にそっくり返るように座って、煙草をくわえた。 (きれいな人なのに——)と、佐和は思った。洗練された化粧法がすっかり身についた、典型的な都会の女性だ。そして、�都会の女性�というイメージのもつさまざまな美質と悪徳が備わっている、と思った。そういうものすべてが、萌子の動作や言葉から発散して自分を呑《の》み込もうとするような気がした。  しかし、佐和にとって幸運だったのは、そういう萌子を好ましいとも、魅力的とも感じなかったことだ。だから、萌子の驕慢《きようまん》なポーズの前でも、それほど卑屈になったりすることはなかった。 「あなた、佐和さん、でしたっけ」 「ええ」 「おいくつ?」 「十九です」 「ふーん……」  少し考えて、「じゃあ、叔父さんのこと、知らないのね」 「ええ、そういう叔父さんがいるということは知っていましたが、どういう人なのか、全然、知らなかったのです」 「そう……、もっとも、私もそんなによく知ってるわけじゃないけど。一緒にいたの、ほんの短いあいだだったから」 「あの、どういうきっかけで、ご結婚されたのですか」 「きっかけってほどのこと、なかったわ。はずみみたいなものかしら。はっきり言えば、騙《だま》されたのよね」 「騙された、ですか」 「そう、小説家だとか言われて、ついね。そしたら、ただの怠け者だったってわけ。あなたには悪いけど、そういう人よ、叔父さんていうのは」 「でも、一千万円も遺産をくださったのですから……」 「遺産?……」  萌子はチラッと佐和に視線を飛ばした。 「ああ、あれね……。そう、あの人も最後にいい贈り物を遺《のこ》していってくれたわ。保険金がガバッと入ったのよ。あれはそのお裾分《すそわ》けってわけ。もちろん、あの人はそんなこと知らないし、そうしろっていう遺書があったわけでもないのよ。みんな私の、まあ、言わせてもらえば、厚意なんですから、どうぞそのおつもりでね」 「ええ、とてもありがたいと思っています。祖父からも、くれぐれもよろしくと言いつかって、それで、なんとかお会いして、お礼を言いたかったのです」 「いいのよ、そんなこと。それより、先刻《さつき》も言ったけど、私は昔のこと忘れてしまいたいの。あの頃とは、いまの生活、全然、違っちゃってるのよ。お付き合いする人の、社会そのものが変わっちゃったのよね。だから、あなたにも、もう、これっきりでお会いしませんから」 「はい、分かりました」  佐和は素直に頷いた。 「ただ、叔父さんのお葬式やお寺のことだけは教えてください」 「それねえ……、困ったわねえ……」  萌子は目を伏せて、しばらく考え込んだ。 「じつを言うとね、お葬式なんか、しなかったのよ。だからお墓もないわ。あの人が死んだ時、お金がなくて、ほら、あの人、現金のほとんどを持ったまま海へ落ちちゃったでしょ。だから、どうしようもなくて。あとで保険が下りた時、お葬式しようかなとも思ったけど、なんだか時期はずれみたいな気がして、それっきりになっちゃったのよ。薄情みたいだけど、でも、形式なんかどうでも、気持ちの問題でしょう」 「でも、人がひとり、亡くなったのですから、お葬式をするのが当然だと思いますけど」 「そうかしら、私はそうは思わないわ。だって、あんなの単なるセレモニーでしょ。私ね、法事に出るたびに、吹き出しちゃうの。ううん、私だけじゃないのよ。あのね、私の家、祖父が元気な頃、お墓を新調したのよね。そのための法事っていうのがあって、みんなでお寺へ行って、お経を上げてもらったんだけど、経文の中に何かおかしい言葉が入ってたのか、肝心の祖父が最初に吹き出して、そしたら、みんな笑い出して、止まらなくなっちゃったのよね。そのせいか、祖父のお葬式の時も、七回忌の時も、私は笑っちゃって、いつも逃げ出したものよ。きっと、子供の頃から、結婚式だのお葬式だのをナンセンスだと思うような環境だったのかもしれないわね」 「それでは、魂はどうなるのでしょうか」 「た・ま・し・い?……」  萌子は、それこそ笑い出しそうな顔をして佐和を見た。  佐和は慍《おこ》ったような眼で、萌子をまともに見据《みす》えている。萌子は、笑いかけたままの表情をこわばらせた。 「へえー、あなた、若いのにそんなこと信じてるの。やっぱし田舎《いなか》なのねえ。マジでそんなこと言うなんて、信じられないわ。あなた本気で魂の存在を信じてるの」 「ええ、信じています」 「やあだ、肉体なんて、ただの物質じゃないの。炭水化物と、カルシウムと、それからなんだか知らないけど、とにかく、それだけのものよ。死んだらおしまい。もう何も存在なんかしないのよ。あなたの叔父さんだってそうでしょう。お葬式をしなかったからって、化けて出るわけでもないし」  佐和は言葉を失い、蒼褪《あおざ》めた顔でじっと萌子をみつめた。  霊魂について、こんなふうにあっけらかんと言ってのけるのを、聴《き》いた験《ため》しがなかった。人間が物質だけの存在でしかないとすると、先祖と自分の関わりあいというのは、いったい何なのだろう——。  そんなことを考えること自体、藤ノ川の日常ではタブーとされていた。  佐和は、これ以上、萌子の話を聴いていると、自分が取り返しのつかないほど毒されてしまう、と思った。目の前にいるのは、まったく別の世界に棲《す》む人種であって、佐和や、佐和が生まれ育ってきた藤ノ川の住人たちのような、過去と未来が、血脈としてはもちろん、霊的にも一本の糸のように繋がっていることを信じる者たちの世界を、毒し、破壊しようとしているのではないか、とさえ思えるのだった。  考えてみると、叔父の教由を藤ノ川から連れ出した当山という人物も、元は藤ノ川の人間ではなかったではないか。当山もやはり萌子と同質の人種であって、とどのつまり、叔父に危害を加えるようなことになったのかもしれない。浅見が言うように、叔父までが二人の仲間になっているということは、佐和にはとても信じられないのだ。 「あの、あなたは、当山さんという人をご存じだったそうですね」  佐和は、萌子の非情さに反発するように、言った。 「当山?……」  一瞬、萌子は険しい眸《ひとみ》をした。 「あなた、知ってんの、あの人」 「ええ、叔父の親友だったと聴いています」 「ふーん……、そうだったの」 「そのことはご存じなかったのですか」 「知らないわ、そんなこと」 「では、叔父と当山さんは、ぜんぜんお付き合いをしていなかったのでしょうか」 「さあ、してたかどうか、少なくともあたしは知らなかったわね」 「ほんとうに知らないのですか」 「くどいわねえ、どうしてあたしが知ってなきゃならないの?」 「では『しーふらわー』から叔父が転落した時、当山さんが乗り合わせていたのは偶然なのでしょうか」 「なんですって?……」  萌子は顔色を変えた。 「どうしてそのことを……」と言いかけ、慌てて、 「そんなこと、知ってるはずないじゃないの」と言い直した。 (嘘《うそ》をついている——)  佐和は心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。浅見の推理は、やはり正しいのかもしれない。 「ほんとなの? それ」と萌子が訊いた。 「ほんとうです。当山さんは車に乗って、那智勝浦で下りたのだそうです」  萌子は黙って、視線を逸《そ》らした。 「それに、当山さんが自殺した時、あなたが目撃したというのも偶然なのですか?」 「えっ……」  萌子は恐ろしい形相で佐和を睨《にら》んだ。 「あなた、どうして、誰にそんなこと聴いたの?」 「やはり、そうだったのですね」  佐和は溜《た》め息《いき》をつくように、言った。 「当山さんは、自殺ではなかったのですね」 「何を言ってんのよ……」 「ほんとうのことを教えてください。あの、叔父は生きているのですね。だからお葬式もあげなかったし、お墓もないのですね」 「…………」  萌子は目を大きく見開いて、佐和を真直ぐに見た。 「あなた、浅見って男から聴いてきたのね。そうでしょう。後ろに、あの男が糸を引いてるんでしょう」  佐和は浅見の名を出していいものかどうか、迷った。 「そうだったのね。道理でねえ。あなたひとりの知恵じゃないと思ったわ、あの男とグルだったのか」  萌子は憎々しげに言った。 「あなた、浅見の何なの? 恋人?」  佐和の頬に、かっと血がのぼった。 「そうかあ、そういう関係なの。ふうん、あなたみたいな純情そうな娘《こ》がねえ、人は見かけによらないわねえ。だけど、言っとくけど、あの男はやめた方がいいわよ。あいつ、あたしのところへ何しにきたと思う? 強請《ゆす》りよ、ゆ・す・り……。保険金のおこぼれにあずかろうと思って、たかりにきたのよ。なんだかんだイチャモンつけてさ。あなたも気を付けた方がいいわよ。ちょっとハンサムで、頭がよくて、善良ぶってるのが、いちばん危ないんだから」  佐和は反論の糸口を掴《つか》めなかった。 「浅見さんは、そんな人じゃありません」  それだけを、やっとの思いで言った。 「そうよねえ、無理ないわよねえ、惚《ほ》れてるんじゃ」  下卑た言い方が、一層、佐和を惨めにした。 「でもねえ佐和さん、考えてごらんなさいよ、そういう目的でもなければ、どうして、何の関係もない浅見なんて男が、ありもしないことをほじくり出したり、余計なことに首をつっ込んだりするの? それとも、あなたがあの男にそう頼んだの?」 「いいえ……」  佐和は力なく首を振った。 「それごらんなさい。悪いこと言わないから、あの男とは手を切った方がいいわよ」  萌子は、勝ち誇ったように言った。  佐和は動揺した。萌子のたたみかけるような言葉に惑わされまいと思いながら、反面、意識のどこかで浅見に対する疑惑が芽を出すのを感じていた。 (そうだわ、あのひとはなぜ、私たちのことを調べているのかしら?)  いままで思ってもみなかったことが、ふっと心に浮かんだ。 「いいえ、浅見さんは悪い人ではありません」  自分の疑惑を打ち消すように、慌てて言った。 「あなたがそう思ってるのなら、それでもいいけど」  佐和の心の乱れを見透かして、萌子は心地よさそうに背を反らせ、煙草に火を点《つ》けた。 「あの、それで、先刻《さつき》の私の質問には答えていただけないのでしょうか」 「質問?」  萌子は、ぷいと横を向いた。 「当山さんや、叔父のことについてです」 「ああ、まだそんなこと言ってるの。それだったら、あなたの気持ちしだいじゃないの。あたしがいくら何を言っても、浅見って男を信じている以上、無駄なんでしょう?」 「でも、叔父が生きているかどうかだけ、教えてください」 「くどいわねえ、生きてるわけないでしょ」 「でしたら、当山さんを殺したのは、いったい誰なのですか」  萌子はすさまじい眸《ひとみ》で佐和を睨んだ。何かを口走ろうとする気持ちを、懸命に抑制しているのが、佐和にも分かった。 「あなた、もう帰んなさいよ。これ以上話すことはないわ」  低い声で、言った。 「分かりました。失礼します。ただ、最後に、叔父の遺品が何かあったらいただいてくるように、祖父にいいつかっていますので、そのことだけお願いします」 「遺品? さあ、そんなもの、あったかしらねえ、大抵の物は処分しちゃったから」 「お願いします、何でも結構ですから、お骨《こつ》の代わりにいただきたいのです。それをお墓に納めます」 「そんなこと言われても、探してみなくちゃならないし、いますぐってわけにはいかないわ」 「それは、いまでなくても結構です。浅見さんのお宅に二、三日はお世話になっていますので、この電話番号にご連絡してくださればすぐに参ります」  佐和は番号を書いたメモを渡した。 「いいわ。でも、あるかないか分からないわよ」  萌子は冷たく言い、追い立てるように席を立った。  萌子の露骨な言葉が佐和の心に与えた心の傷は思いのほか深く、大きかった。とりわけ「強請《ゆす》り」というゴツい言い方で浅見をきめつけたことが、佐和を困惑させた。ことの真偽を浅見に確かめるわけにはいかない。浅見に対してほとんど無防備な気持ちでいただけに、しのび込んだ疑惑の雲が、とめどなく広がってゆくような不安があった。  出会い以来、佐和は浅見とのことに運命的なものを感じている。はじめて会った時の、いわれのない不当な警戒心は、直感的に浅見を自分にとっての�特別なひと�と意識したことの裏返しのようなものだ。そしていま、浅見への思慕は、しっとりとした情感を湛《たた》えて佐和の心を充たしている。それなのに、浅見への疑惑が入り込む隙間が心の中にあったことは、何よりも自分自身に対する背信だ、と佐和は思った。  浅見家へ戻って浅見と顔が合うと、佐和は無意識の裡《うち》に目を伏せていた。 「なんだか、疲れているみたいだね」  浅見は闊達《かつたつ》に言った。 「ええ、少し疲れました」 「そうでしょう、彼女の毒気に会えば、誰だって消耗しますよ。それで、どうだったのです。お寺のことなんかは、分かったのですか?」 「お寺もお墓もないのだそうです。お葬式もしなかったって、言いました」 「ずいぶん、ひどい話ですねえ」 「それで、私、思ったのですけど、やっぱり浅見さんが言ったように、叔父は生きているのではないかと……、だからお葬式をしなかったのだと……」 「まあ待ちなさい。それはあくまでも僕の仮説に過ぎませんよ。真実はまだ分からない。そのことで、僕は明日《あす》か明後日《あさつて》、名古屋へ行ってこようと思います。教由さんが音信を絶っていた二十年の秘密を解くカギは、名古屋にありそうな気がするのです」 「あの……」  佐和はためらいながら、言った。 「浅見さんが叔父のことを調べる目的は、何なのでしょうか」 「え?……」  意表を衝《つ》かれて、浅見は一瞬、絶句した。 「ほんとだ、そういえば、目的は何なのでしょうねえ」  他人事《ひとごと》のように、浅見は笑った。 「最初の内は好奇心かなあ。じつは、この話は、最初、高速フェリーの『しーふらわー』に乗っている僕の友人で、堀ノ内というヤツから持ち込まれたものなのですよ」  その経緯《いきさつ》を話して、 「しかし、藤ノ川で佐和さんに会ってからは違ってきちゃったな。いまは、半分は君のため、残りの半分は警察のためと、好奇心のために動いているつもりです」 「お金を儲《もう》けなくてもいいのですか」 「お金? そりゃ、儲けるに越したことはない。げんに、ある生命保険会社が謝礼を出すと言ってくれましたよ。しかし、そういうヒモつきで始めたことではないのです。だから、もっぱら持ち出しばかりですが、君はそんな心配しなくてもいいのですよ。僕は居候《いそうろう》みたいな呑気《のんき》な身分だし、これでも物書きの端くれですからね。なんとか食べる分ぐらいは、結構、稼いでいます」 「では、お金が目的じゃないのですね」  浅見は思わず、怪訝《けげん》な目を向けた。 「どうしたのです? どうして、そんなことを訊くんです?」 「すみません、へんなこと訊いたりして……」  佐和は俯《うつむ》いた。 「そうか、君はあの女に何か言われたんですね。浅見が強請《ゆす》りにきたとか、なんとか」  こくり、と佐和は頷いた。泣き出しそうな顔をしていた。  浅見は勃然《ぼつぜん》と憤りがこみあげてきた。 (あの女狐《めぎつね》、許せない——)  多岐川萌子に対して、はじめて、剥《む》き出しの憎悪を抱いた。  だが、浅見の逆上はほんの一瞬のことであった。どんな場合でも、自己をみつめるもうひとりの自分を失わないのが、浅見の特質であり、天与の才能である。 「そんなことは決してないから、佐和さんは心配する必要はないのですよ」  平静な声で、優しく言った。 第六章 悲 劇     1  五月一日、浅見は愛車と共に『しーふらわー』の客となった。佐和は叔父の霊に捧げる花束を抱いて晴海埠頭《はるみふとう》まで送ってきた。 「私も連れていってください」と言う佐和を宥《なだ》めるのに、浅見は苦労した。浅見自身にも、佐和を連れて行きたい気持ちがないわけではない。しかし、それがおそらく�危険な旅�になるであろうことが予測できるだけに、浅見は必死の想いで誘惑を拒絶した。  佐和とのこととなると、どうしてこんなに臆病《おくびよう》なのか、自分でもおかしいほどだ。  しつこいほど同行をせがむ様子からいうと、むしろ佐和の方が積極的でさえある。それは男女のことに無知でそうなのか、あるいは逆に、すべて納得ずくで、割り切っているのか、浅見には大きな謎でしかなかった。  堀ノ内ははじめて佐和と会い、挨拶を交わすやいなや、浅見の耳に口を押しつけ、「おい、美しい娘《こ》じゃないか」と言った。 「それに、ものすごく、若い」 「うん」  浅見はしぜん、北叟笑《ほくそえ》んだ。 「この野郎」  堀ノ内は佐和から見えない側の浅見の脇腹を、二度、三度、小突いた。 「また高知行きか」 「いや、名古屋だ」 「名古屋? だったら陸路の方が近いし、第一、安上がりじゃないか」 「ばか、折角、乗ってやるのに、ケチつけるヤツがあるか」  浅見は笑った。 「じつは、この人の叔父さんの、今日が三回忌だろう、だから、鎮魂の花を海に投じるのだ」 「あ、そうか、もう三回忌か。早いもんだなあ」  ご愁傷《しゆうしよう》さま、と、堀ノ内はあらためて佐和に挨拶した。  佐和は結局、ドラが鳴り出すまで船上にいて、ひどく寂しい顔で下りていった。 『蛍の光』が流れ、船と岸壁とのあいだに、幾十条ものテープが渡された。見送りの人の波の中で、佐和は祈るように、手を胸の前で組んで、いつまでも動かなかった。  翌朝。天気は西の方から崩れつつあるということで、那智勝浦港は重い曇り空の下にあった。内陸側から吹く風は、肌寒く感じるほどだ。 「おい、あの娘《こ》はお前にはでき過ぎだぞ。ちゃんと掴まえとけよ」  別れしなに、堀ノ内は珍しく、真面目《まじめ》くさった顔で言った。  那智勝浦から国道42号線を北へ進む。目的地の名古屋まで、およそ二五〇キロの道程である。道路そのものはよく整備されているが、鳥羽、伊勢という大行楽地を縦断していくのだから、渋滞も予測され、名古屋到着は夕刻頃と浅見は判断した。  車を走らせながら、浅見はふと、二年前の今日、同じ道を当山林太郎が進んでいたことを思い出した。その車のトランクの中には、おそらく稲田教由が潜んでいたはずだ。故郷を出て以来、二十何年か、どのような経緯を辿《たど》ったにせよ、教由が故郷へ綴《つづ》った葉書の「お金を儲けて……」という願望は、ついに一攫千金《いつかくせんきん》の離れ技を行なうことによって実現した。ある意味では�男子の本懐�といっていいだろう。  だが、そうして二人三脚を続けてきた稲田教由と当山林太郎が、殺しにまで発展するほど確執《かくしつ》しあうようになったのは、なぜなのか。単純に、分配金をめぐる仲間割れ——といった、常識的なパターンを当てはめるには、二人の生い立ち以来の関係を考えると、理解に苦しまざるを得ない。  そして、成功によって得た報酬も、二人にとって、決して甘いものではなかった。  当山が死に、教由が潜伏生活を続けなければならない以上、実質的に自由な金を使えるのは、多岐川萌子だけ、ということになる。まさに、わが世の春だ。  シナリオを書いたのは、当山か、教由か。しかし、栄光のフットライトを浴びたのは萌子、というのでは、男二人はまったくの道化《ピエロ》でしかない。そんな割に合わないシナリオを、はたして書くものだろうか、という疑問が湧《わ》いてくる。  何か、予想もしなかったような変事が持ち上がって、その結果、計画に齟齬《そご》をきたしたのではないか。当山の死は、それによって生じた、ひとつの�結着�であったのかもしれない。  だが、かりにそうだとしても、教由が当山を殺す、という情況は、やはり異常だ。 (女か——)  ふと、浅見は思った。多岐川萌子の成熟した姿態が目に浮かぶ。二人の男と萌子との関係は、表面に現われていたのより複雑なものではなかっただろうか。  浅見はハンドルを握った姿勢で、いやいやをするように、首を振った。このテの推理が浅見にとって、最も苦手とする分野だ。男女関係の淫靡《いんび》な部分にまで踏み込んでする仕事は、浅見には生涯、向いていないものかもしれない。  国道42号線は、松阪市を過ぎるあたりで23号線に合流する。津《つ》、鈴鹿《すずか》を抜け、四日市《よつかいち》市の境界標識を過ぎた時、またしても、稲田教由が綴った葉書のことが脳裡《のうり》に甦《よみがえ》った。  大阪から、奈良を越え、伊賀上野《いがうえの》、亀山《かめやま》と歩いた二人の少年は、昭和三十四年九月二十五日、四日市に一泊し、翌日、藤ノ川へ便りを出したのを最後に消息を絶っている。  葉書には〈明日は、いよいよ名古屋へ——〉と、希望と不安に満ちた文面が綴られてあった。故郷の者でなくとも、当然、続信を期待するではないか。名古屋へ着いてどうした、働き口はあったのか、健康は? と気遣《きづか》う両親、兄弟の顔が目に浮かぶ。  稲田教由はなぜ、以後、便りを書くことを止めたのか。なぜ、二十年間も所在を明かさなかったのか。  謎の根源を求めて、浅見は名古屋への道をひた走った。  桑名《くわな》——。  教由の最後の葉書には〈桑名郵便局〉の消印が捺《お》されていた。この街のどこかで、ポストに葉書を落としていったことは間違いない。四日市からの距離は約一二キロ。朝、四日市を出発したとして、少年の脚では正午前後か。桑名の先は、長良《ながら》、木曾《きそ》、鍋田《なべた》と、伊勢湾に注ぐ三つの川を渡ってゆく。  鍋田川を越えれば、いよいよ愛知県だ。〈飛島《とびしま》村〉と書かれた標識が視野をかすめた。  浅見は道路脇のガソリンスタンドへ車を乗り入れた。東京近辺より一割近くも安い価格が表示されてあった。  威勢よく飛び出してきた店員に「満タン」と指示すると、浅見は車を出て、周囲の風景を眺めた。  四日市からここまで、約二〇キロ。もう名古屋は指呼《しこ》の距離である。徒歩できても余力があれば、もうひと踏んばりするところだろうが、もし宿をとるならこの界隈《かいわい》か。教由は、『明日は名古屋——』と決めていたらしいから、おそらくこの辺りに宿を借りるか、野宿をきめこむつもりだったと考えられる。  国道沿いにガソリンスタンドやドライブインが点在する以外、道路に面した民家はほとんど、ない。周辺一帯は大半が田んぼで、そのあちこちに瓦屋根《かわらやね》の民家が建っていた。遠くには神社のような、急勾配《きゆうこうばい》の切妻屋根も見える。 (野宿には、ああいう神社が適していただろうな——)  浅見は少し感傷的な気分になった。  時計はすでに四時を回っていた。  急げば、この時間に名古屋市内に入れるかと思ってきたのだが、やはり、道路は混んでいた。予定している調査は明日、ということにして、浅見は車で付近をひと回りすることにした。  目についた切妻屋根の建物は、近づくにつれ、やはり神社であることがはっきりした。しかし、建ってまだ間がないらしく、屋根も壁板も木の香が匂《にお》いそうな新しさだった。三十四年当時に、この神社があったとは考えられない。  それにしても、この村は樹木が乏しい。丈の低い庭木を別にすれば、視界を遮《さえぎ》るような立木は数えるほどしかなかった。おそらく、干拓地に新田を造成した、比較的、新しい村なのだろう。  神社の遥か向こうに、何やら塔のようなものが見える。平坦な地形の中から天に沖するように突出しているために、いやでも興味をそそられる。  田園の中に四通八達した舗装道路を縫うように辿《たど》って、車を走らせる。  塔は小さな緑地公園の中に建っていた。高さは一〇メートルぐらいだろうか。台座の上に等身大の人物像が数体、据《す》えられてある。白色セメントで作られたらしい塑像《そぞう》はそれぞれ奇妙な恰好だ。浅見は車を下りて塔に近寄った。  ひとりが長い竿《さお》を持って立っている。もうひとりが、身をかがめ、台座の横から裸の若者を抱き上げようとしている。両脇から手を差し込まれ、抱き上げられている若者は、首を垂れ、腕にも脚にもまったく生気がない。どうやら、その若者は死者であるらしい。全裸ではなく、パンツは穿《は》いているのだが、肌にぴったりまつわりついているため、股間《こかん》のふくらみの部分が、妙になまなましかった。  どういう意味のある像なのか見当もつかなかったけれど、塔を半周して正面に立つと、『伊勢湾台風殉難之塔』と、大きく刻字されていた。像は遭難者の救出作業を意味する。  そういう台風があったということは、浅見は名前を聞いたことがある程度の知識を持っているにすぎない。慰霊碑を見て、はじめて、死者が出たらしいことを知った、といってもいいほどの知識だ。  干拓地だから、長良川や木曾川の氾濫《はんらん》による洪水被害が出たのだろう、と、浅見は単純に思った。塔の裏面には由緒を書いた碑文が刻まれているのだが、位置が高いのと、風化のせいなのか、判読がやっと、といった読みにくさで、浅見は一見しただけで止めてしまった。  ふたたび車に戻り、干拓地の海岸線まで行ってみた。干拓地は運河に囲まれていて、その向こうに巨大な堤防が連なっている。その先は伊勢湾なのか。浅見は海を見たいと思ったが、名古屋でのホテル探しのことを考えて先を急ぐことにした。運河沿いの道を少し行ったところに、またひとつ『殉難之碑』があった。こっちの方は小ぶりで、しかも低い敷地に建っていたから気付かなかったけれど、考えてみると、先刻の神社からそう離れていない位置関係だ。その前を通り過ぎるとすぐに、国道の往来が見えてきた。  思ったとおり道路は混雑して、名古屋の中心まで、そこからさらに一時間以上を要した。しかし、宿の方は安くてきれいなビジネスホテルが、思いのほかかんたんにとれた。行楽客は市街の真ん中の、しかもビジネスホテルに泊まろうなどとは思わないものらしい。連休の谷間のような日で、街は夜になってもざわめいていた。  浅見はホテルの定食でビールを一本飲んだだけで、つつましくベッドに入った。  朝、目覚めるとすぐ、東京へ電話を入れた。お手伝いの須美子に代わって、待ち侘《わ》びていた様子の佐和の声が飛び出した。 「あ、浅見さん、たいへんなことがあるんです」  のっけから、昂奮して喋っている。 「やあ、おはよう」  浅見はわざと、落着いた口調で言った。 「おはようございます、すみません、慌てたものですから」 「その様子だと、大事件らしいですね」 「ええ……」  佐和は気息を整えてから、抑制した声で言った。 「じつは、多岐川萌子さんから昨夜《ゆうべ》、連絡がありました」 「あの女から?」 「ええ、それで、あの、叔父が会いたいといっているのだそうです」 「えっ……、叔父さんが?」 「はい、今日の午後一時に萌子さんのお宅で、という約束です」 「そう……、やっぱり生きてたのですか……」  浅見は複雑な想いで、言葉を途切らせた。 「誰にも言うなと言われたのですけど、浅見さんだけにはと思いまして……」 「ああ、ありがとう。しかし、警察には報《し》らせない方がいいでしょう。折角、叔父さんの方からそう言ってきてくれたのですから。ただ……」  浅見はふと、理由のない不吉な予感が脳裡《のうり》をかすめたのを、どう伝えるべきか、迷った。 「はい、なんでしょうか……」  佐和はその先の言葉を待っている。 「いや、充分に気をつけて。そして、叔父さんの気持ちにむやみに逆らったりしない方がいい。佐和さんに危害を加えることはないと思うけれど、おそらく、ああいう事件を起こしたあとだとすれば、精神的に不安定な状態だろうから。いいですね、決して無理はしないで」 「分かりました」  電話を切ったあとも、浅見の言いようのない不安は消えなかった。  稲田教由が生きていたこと、それ自体には驚かないが、教由が佐和に会おうとしている目的が何か、気にかかった。  朝食を摂《と》るには摂ったが、少々手をつけただけで、やめた。屈託した気分からどうしても抜け出せない。  九時少し過ぎにホテルを出て、愛知県警察本部へ向かう。名古屋城に近い官庁街の一角の、ゆったりした敷地に建つ八階建てのビルだ。玄関を入ろうとすると、立哨《りつしよう》の巡査が挙手の礼をして、「おはようございます。失礼ですがご用件は何でしょうか」と訊いた。 「東京から取材にきた者です」  とっさに、そう答えた。 「では、広報課ですね。受付にお寄りください」  終始、笑顔で好感が持てる。  受付の婦警からバッジを借りて、二階奥にある広報課を訪ねた。隣は記者クラブになっているが、目下のところ平穏なのか、閑散としていた。  広報室には私服ばかり十数名が、思い思いに机に向かっている。一見した感じでは、ふつうの会社の執務風景と変わるところがない。  それでも、よく見ると、机の上の名札に『課長補佐秋山警部』などとあり、やはり警察なのだなあ、と思わせる。  末席の青年が浅見に気付いて、さっと立ってきた。二十三、四歳か。スラッとしていて、なかなかのハンサムだ。階級章をつけていないので分からないが、末席といっても平《ひら》巡査ということはなさそうだった。浅見が名刺を出すと、「田中《たなか》です」と名乗った。 「じつは、広報課をお訪ねするのが適当かどうか、よく分からないのですが」と、浅見は前置きをした。 「昭和三十四年九月末から十月頃、名古屋付近で発生した凶悪犯罪——たとえば、殺人とか強盗傷害といった事件——の記録が閲覧できるかどうか、お訊きしたいのです」 「昭和三十四年、ですか……」  田中は目を宙に据えた。おそらく、彼が生まれた頃のことだ。ピンとこないに違いない。 「そういう資料は、ここには置いてませんですが」 「捜査記録とか、事件簿みたいなものはないのですか」 「ありますが、しかし、一年前か、せいぜい三年ぐらい前の物しか残っていません。なにぶん、膨大な数ですから、どんどん廃棄処分しませんと……」 「所轄署にも残っていませんかねえ」 「さあ……」  こんな妙な訪問者ははじめてとみえ、田中は困惑したあげく、「ちょっと待ってください」と席をはずし、いくぶん年長の大柄な男を連れてきた。「小川《おがわ》」と名乗ったその男は、浅見の話を聞くと、すぐ、「新聞の縮刷版じゃいけませんか」と言った。  それは浅見の念頭にも当初からあったことだが、事件発生直後に発覚したものならともかく、たとえば白骨死体が発見された時点で、ようやく事件が明るみに出たような場合には、新聞の報道と実際の事件発生との時間差が大きすぎて、調べが難しい。そのことを言うと、「なるほど」と、小川も頷いた。 「しかし、ともかく、一応は調べてみたらどうでしょう」  話の途中で田中の指が電話のダイアルを回し始めた。 「あっ、だめです」  田中は先方の機械的な応答を聞いたとたん、失望した声を出した。 「今日は祭日で、図書館は休みだそうです」 「あ、そうでした……」  そのことは浅見も完全にうっかりしていた。 「すると、みなさんは休日出勤ですか」 「いやあ、警察の休みはいいかげんなのですよ。第一、犯罪の方は年中無休ですから」  小川は陽気に答えた。さすが広報にいるだけあって、二人とも人当たりがじつにいい。兄の四角四面ばかり見ていると、つい、警察とは杓子定規《しやくしじようぎ》な動きしかできないところと思いがちだが、戸塚署の橋本といい、ここの二人といい、なかなかさばけた人間性の持ち主であることが分かる。 「それじゃ、新聞社を紹介してあげますよ」  小川は気さくに立って行って、隣の記者室からかなり年輩の男を連れてきた。地元紙の県警詰め記者だということだが、二人の警察官と較べると服装も態度も、だいぶ柄が悪い。 「三十四年の九月だって? 古い話だねえ、縮刷版じゃなくて、マイクロになってるかもしんねえよ」  言いながら、ふと気が付いた。 「昭和三十四年といえば、伊勢湾台風のあった年じゃねえか」 「伊勢湾台風?……」  浅見はドキッとした。昨日、干拓地で見た『殉難之碑』の不吉な塑像が脳裡に浮かんだ。 「そう、伊勢湾台風。あんたらぐらいの歳じゃ記憶にないかもしんねえが、でかい台風で、ずいぶん死んだ」 「何十人も死んだのですか?」 「何十人?……」  ジロッと浅見を見て、あははと嗤《わら》った。 「五千人だよ、五千人。いや、死者行方不明合わせて五千数百人だったかな。名古屋の南部地域だけで、三、四千人死んだはずだ」 「それは、もしかすると……」  浅見は生唾《なまつば》を飲み込んだ。 「三十四年の九月二十六日のことじゃありませんか」 「さあ、日にちまでははっきり憶えていないが、まあ、だいたいそんなところだったろうね」 「その台風では、身元不明の死者も出たのでしょうか」 「だろうね。伊勢湾から太平洋へ流れていった遺体だってあるくらいだから、身元不明どころか生死不明者だって相当な数にのぼったはずだよ」  浅見は黙りこくり、考えに沈んだ。 「あんた、伊勢湾台風のこと知りたいのかね」  新聞記者の方から、声をかけた。 「ええ、ぜひ」 「だったら、ウチの社へ行きなよ。資料室の方へ連絡しとくから、受付で、モツ山から聞いてきたっていえば、通してくれる」 �モツ山�はそれだけ言うとさっさと行ってしまった。  若い田中が新聞社への道順を教えてくれた。 「モツ山、とは、どういう字を書くのでしょう?」  浅見が訊くと、田中は笑い出した。 「本名は本山《もとやま》さんなのですよ。酒を飲むときは、いつも肴《さかな》はモツ専門だから、そういう渾名《あだな》がついたのだそうです」  口は悪いが人間はいい、とつけ加えた。     2  本山記者のおかげで、資料の閲覧はスムーズにいった。  伊勢湾台風関係の記事を読み進むとともに、浅見はその災害のあまりのすさまじさに唖然《あぜん》とした。こんな悲惨な歴史がつい二十何年か前にあったということを、ほとんど知らずにいたのが不思議でならなかった。  人間は誰《だれ》しも、自分の記憶の中から、不快な、あるいは不幸な部分を抹消しようとする。あれほど忘れまいと誓った戦争体験でさえ、かなり恣意《しい》的な面もあるにせよ、国の歴史の中で風化しようとしているくらいだから、四半世紀を経過する天災のことなど、人々にとっては思い出すのも忌わしいことなのかもしれない。  それにしても、この大災害が、長い歳月を超えて、自分と関わりを持つようになるなど、まるで予想不可能なことではないか。浅見は、いまさらのように、歴史と個人とが決して無縁ではないことを思い知らされた。  伊勢湾台風は昭和三十四年九月二十六日午後六時二〇分、潮岬《しおのみさき》付近に上陸、紀伊半島東部を北北東に進んだ。気象台が記録した風速は四五・七メートルまでだが、実際の瞬間最大風速は六〇メートルに達したのではないかといわれる。  名古屋市では午後七時頃にはすでに暴風雨に見舞われ、まもなく全市が停電、暗黒の中で、一部地域では浸水が始まり、避難命令も出された。  だが、この時点ではまだ、多くの市民はもちろん、市の災害対策本部でさえ、事態をそれほど深刻にとらえてはいなかった。市南部の堀川《ほりかわ》沿いの地域では、床下浸水はさほど珍しいことではなかったのだ。  そして、午後九時過ぎ、満潮が進むのと同時に、決定的な破局が訪れる。  名古屋気象台は、この日の高潮を約二メートル前後と予測し、一応、高潮に対する警戒を強めるように呼びかけていた。ところが、実際の高潮は、なんと、予測を大幅に超える五メートル三〇センチにも達したといわれる。名古屋市民が絶対の拠《よ》りどころとしていた名古屋港防潮堤は、あっけなく決潰《けつかい》し、一瞬の内に伊勢湾そのものが市内めがけて侵入したのである。  水は、南区をはじめ、港《みなと》、中川《なかがわ》、熱田《あつた》など、名古屋南部の各地を襲い、民家の多くは軒先まで水に沈んだ。家の中の者が逃げる間《ま》もないほどの速度であった。  二階家はまだしも、平屋では、逃げ場を失った家族は天井裏へもぐり込んだ。しかし、水はさらに増え、あるいは家そのものが倒壊するなどして、天井裏もしだいに水没し、多くの犠牲者を出した。  さらに被害を大きくしたのは、港湾一帯の貯木場から溢《あふ》れ出た巨大な木材の襲来だった。長さ一〇メートル、太さ一メートル半近いラワン材などが、高潮と強風に加速されて押し寄せた。このために破壊された家屋は数知れず、また、木材に押し潰された犠牲者も多数にのぼったという。せっかく屋根の上に這《は》い上がって救助を待っていた者が、激突した木材にはね飛ばされ、水中に転落したようなケースもあった。  これらは災害のほんの一部にすぎない。十月六日午後十時現在で、中部管区警察局が集計した、愛知、三重、岐阜三県の被害状況の主なものは次の通りであった。   死者       三、九〇七名   行方不明       八四三名   負傷者     一四、四一五名   建物全壊    二六、二三一棟   建物流失     二、八二六棟   罹災世帯   二五二、八五八世帯   罹災者数 一、一三一、一五〇名  なんと、百万人をはるかに超える住民がまともに被害を受けたのである。台風被害としてはまさに空前絶後の大惨事といっていい。このほか、沈没、または流失した船舶の数は千六百にも及び、床上・床下浸水にいたっては二十八万棟という数字を示している。  そして——。  この大災害の真只中に、流浪の二少年がいたのだ。  浅見は新聞社を出ると、もう一度、飛島村の『殉難之碑』を訪れた。塑像のある大型の塔は碑文が判読できなかったので、丈の低い方にまず、立ち寄ってみた。こちらの方には塑像もなく、敷地その他、規模はすべての面で小ぶりに出来ているが、碑文は鮮明で読み易かった。  時、昭和三十四年九月二十六日の夜、史上最大といわれた伊勢湾台風が、風速五十米の烈風と異例の高潮洋浪を伴って当地方へ来襲し、荒れすさぶ怒濤は瞬時に五米七十糎の海岸堤防を打越え決潰し、流失せる家屋百三十二戸に及び、家財は全滅し、あまつさえ飛島村住民百三十名の尊い人命を奪い去ってしまった。  高波は家を越え、濁流渦巻く暗闇に親を呼び子の姿を求め吾子の名を叫び続ける様こそあわれ。  (後略)  碑文はさらに続き、飛島村の惨状もまた名古屋市のそれと等しかったことをしのばせる。 (疑う余地はない——)と、浅見は思った。当山林太郎、稲田教由の二人は台風襲来の当夜、この付近のどこかを通過中か、あるいは風雨を避けて仮泊していたに違いない。そして何かが起こった。  六〇メートルの暴風雨。五メートルの高潮。闇の中に叫び交わす悲鳴——。地獄の底で、二少年の身に何があったのか——。  浅見は気を取り直して、一〇〇メートルばかり離れた農家を訪ねた。  庭先で若い父親が幼児とボール遊びをしていた。 「伊勢湾台風のことねえ。よく知んねえが、それだったら、役場の総務課長をやっとる、阿部《あべ》さんという人を訪ねたらいいでしょう」  当時、青年団員のリーダーとして救出活動の先頭に立った人物だ、と、阿部家への道順を紙に書いてくれた。国道23号を越え、干拓地の北へ行ったところにある集落に、石塀《いしべい》をめぐらせた二階家があり、そこが阿部家であった。  阿部は五十歳前後の細身の男で、典型的な官吏タイプだ。伊勢湾台風当時、すでに役場勤めをしていて、救出活動の模様などを克明に記録したほどだから、記憶はしっかりしているという。 「しかし、二人連れの少年のことについては憶えていませんなあ」  阿部は首をひねった。 「この村の人口の約五パーセントほどが死にましたがね、身元不明の遺体というのは、女の子が一人あったきりで、これも、確か、あとになって身元が判明したと思いますよ」  浅見は、当山と稲田が、まさに台風が襲来したその日に、この村に来たはずだと、重ねて力説した。 「狭い村ですからなあ、見知らぬ者がウロウロしていれば、たいていは目に止まるし、噂《うわさ》にもなるのだが……、それで、その二人というのは、何の目的で当村へやってきたのですかなあ」 「いえ、飛島村に目的があるのではなく、四日市の方から名古屋へ向かって通過するところだったのです」 「え?」  阿部は妙な顔をした。 「それだったら当村は通らんでしょう。もっとずうっと北ですよ、国道は」 「北?……」  意味を解せない浅見の顔を見て、阿部は、「ああ、あんた、ご存じないですか」と言った。 「当村を走ってる国道23号、ここらでは名四国道といってますが、あれは、その後にできた道路でして、当時、飛島村へ入ってくるには国道1号から岐《わか》れて弥富《やとみ》町を通ってくる道しかなかったのです。第一、四日市《よつかいち》から名古屋へ行くのも国道1号だけでしたよ」  阿部は地図を展《ひろ》げて、説明した。それによると、確かに、亀山方面からの道は国道1号で、四日市、桑名《くわな》付近では、ほぼ現在の23号線と平行しているけれど、桑名を過ぎたところから北へ向かい、長良、木曾の両川を渡る時は、はるか北、七キロ辺《あた》りを通っている。通過するのは、三重県の長島町と木曾岬《きそざき》村、愛知県に入って、弥富町、十四山《じゆうしやま》村であった。  せっかくの着想がふいになったか、と、浅見はがっかりしかけた。だが、阿部はさらに言葉を続けた。 「当村の惨状もひどかったが、木曾岬村では住民の一割、三百人以上。弥富町でも同じくらいの死者が出て、しかも木曾川の洪水で流されて、そのまま行方知れずになった人もだいぶん居《お》ったそうですわ」 「ほんとうですか!」  浅見は思わず、大きな声を発した。そして、次の瞬間、まるでその大声に脳髄を刺激されたかのように、重大なことを思い出した。 「ばかな!……」  浅見は慄《ふる》えあがった。 「すみません、電話をお借りしたいのですが」 「電話?」  阿部は気難しい顔をした。 「人ひとりのいのちがかかっているのです。お願いします」  浅見の剣幕にあおられ、阿部は慌てて電話のところへ案内した。  電話口には母親の雪江が出た。 「光彦です。あの、佐和さんはもう出てしまいましたか」 「ええ、出ましたよ。一時に南青山のお約束だとかで……」  その一時を十分も過ぎている。 「電話、切ります」  言うなり受話器を置き、手帳の中から麻布署の番号を拾い出した。  西本捜査係長は外出中だった。 「事件捜査で、しばらく戻りませんよ」  デスクの中年らしい声が、そっけなく言った。 「それじゃ、どなたでもいいのですが、至急手配をお願いしたいのです」 「どういうことですか」 「南青山のマンション、『ドルチェ南青山』に行ってください」 「ドルチェ南青山?」  怪訝《けげん》そうな声で言った。 「ドルチェ南青山なら、先刻、一一〇番があって、当署からも係長以下が向かっていますが、あなたの言うのは別件ですか?」 「えっ? あの、それは多岐川萌子さんのお宅でしょうか」 「そうですよ、多岐川さんです」 「そこで、何があったのですか」 「まだ連絡が入ってきていないが、傷害のようですな。女性が刺されたらしい」 「刺された!……」  浅見は自分が刺されでもしたような、悲鳴をあげた。 「それで、傷の程度は?」 「一一〇番では、被害者《マルガイ》は死亡状態ということだが……」 「死亡……」  全身の力が抜けて、浅見は電話台の上に右手をついた。 「遅かったか……」 「もしもし、もしもし……」と呼ぶ声がくり返されている。 「あ、すみません。じつは私は被害者の知人なのですが、刺した犯人の方はどうしたのでしょうか」 「犯人かどうか、まだ分からんが、現場にいた女性をひとり確保したようですな」  では、多岐川萌子は逃走しなかったのか。 「ありがとうございました。また後《のち》ほど連絡させてください」 「ああ、もしもし、あんた被害者のお知り合いなら、署の方へきてくれませんか」 「ええ、うかがいますが、いま名古屋にいるもので、五、六時間はかかると思います」 「名古屋ですか、しかし、とにかくきてください」 「分かりました」  やっとの思いで電話をすませ、浅見は床の上にへたりこんだ。他人の目がなければ泣きたいところだ。なぜあの時、佐和を引き留めなかったのか——。悔やんでも悔やみきれない自責の想いにうちのめされた。  本来、稲田教由が生きているなどというのは、仮定のことでしかなかったのだ。あの時点でも、その状況は変わっていない。それにもかかわらず、佐和から「叔父に会いに行く」と聞かされた時、一も二もなく、信じ込んで疑いもしなかった。もし「教由が生きていないとすれば」という仮定を充分に配慮していれば、多岐川萌子の誘いが罠《わな》であることぐらい、容易に見破ることができたものを——。  帰途についた浅見の心は、佐和を失った悲しみと、自分の愚かさに対する憤りに占められ、ハンドルを握りながら、幾度も哭《な》いた。     3  麻布警察署はごった返していた。玄関前の駐車スペースに車を置き、署内へ向かおうとして、顔見知りの新聞記者とバッタリ出会った。 「やあ、浅見さん、お早いお出ましですな」  陽気に声をかけてきた。 「美人同士の殺しで、面白いネタですよ。そこへもってきて、浅見名探偵の出馬ときちゃ、役者は揃《そろ》ったなあ」  浅見は、こみ上げる憤りを抑え、かろうじて苦笑してみせた。  署内は普段より警戒が厳しく、入口の所で誰何《すいか》された。名古屋から電話した者だ、と名乗ると、電話の相手の『米村《よねむら》』という巡査部長が飛んできた。 「やあ、あんたがそうですか。とにかく被害者《マルガイ》に会いますか。まもなく監察医務院の方へ運ぶところでした」 「お願いします」  米村が先に立って、死体安置所へ向かった。窓の外は昏《く》れてきて、廊下を照らす蛍光灯《けいこうとう》の明かりがもの悲しい。  線香の匂いのする部屋のドアを開け、「どうぞ」と、米村は道を譲った。  部屋の中央にあるビニール張りの寝台に、白いビニールで覆った遺体が横たわっていた。枕元《まくらもと》の白木の台に香華《こうげ》が供えられ、死者への礼を尽くしている。 「失礼します」  浅見は米村に一礼し、さらに遺体に一礼してから寝台に近寄った。掌を合わせ、ふたたび頭《こうべ》を垂れた時、不覚にも泪《なみだ》ぐみそうになった。  だが、遺体の顔にかかった白布をめくった瞬間、あまりの意外さに、浅見は茫然《ぼうぜん》とした。 「多岐川、萌子……」  白布の下から現われた顔は、なんと、多岐川萌子の無念の形相であった。 「これは、いったい、どういうことですか」  白布を元に戻し、浅見は米村を睨《にら》みつけるようにして、言った。 「どういうこと、とは?」  人の善さそうな巡査部長は、薄くなった前頭部に手を当て、目を丸くした。 「被害者はこの女性なのですか?」 「そうですよ」 「しかし、電話では、たしか、犯人らしい女性を確保したと……」 「そうですよ」  米村はこくりと頷《うなず》いた。  浅見は混乱した。髪の毛を掻きむしりたい衝動に駆られた。 「まさか……」  絶句した。そんな馬鹿《ばか》なことがあっていいものか——。 「その女性は、逮捕したのですか」 「ええ、一応、住居不法侵入容疑と、殺人事件の重要参考人として連行し、取調べ中です」 「会わせていただけますか」 「えっ?」 「その女性は、稲田佐和さんというのじゃありませんか」 「そうですが、あんた、知り合いですか」 「恋人です」  浅見は沈痛な表情で、はっきりと言った。  米村は慌《あわ》てふためき、浅見を刑事課の室へ連れていった。ガランとした部屋の奥の机に、紺のスーツを着た恰幅《かつぷく》のいい男がいて、米村の報告を受けると立ってきた。 「刑事課長の根岸《ねぎし》です」  バリトンで名乗り、椅子をすすめた。 「浅見です」 「えっ?……」  根岸はふしぎそうに、 「いましがた連絡したばかりだが、ばかに早かったですなあ」 「連絡? あ、それは私の自宅の方へ、でしょう。私はいま、名古屋から戻ったところです。では、自宅の方へも連絡がついたのですね」 「ええ、年輩の女の方が出られたが、あなたのおふくろさんですか」 「たぶんそうだと思います」 「いやあ、被疑者《マルヒ》の女性というのが、頑強でしてなあ、なかなか連絡先を教えんのですよ。なんか、お宅に迷惑をかけたくないというようなことでしたがね」 「では、母がこちらへ参るのですか」 「いや、息子さんが見えるようなお話だったが、あなたのことではないのですか」 「違います、兄のことでしょう」  まずい、と浅見は思った。兄がこんなところへ現われたら、報道陣の恰好の獲物にされてしまう。 「ちょっと、電話をお借りします」  急いで警察庁の番号をダイアルした。 「刑事局長の浅見をお願いします」  早口で言う浅見を、根岸課長は驚いた顔でみつめていた。  兄の陽一郎は、すでに退庁したあとであった。浅見は急いで、自宅に電話した。  須美子が出た電話をひったくるようにして、母の厳しい声が飛び出した。 「光彦さん、あなた、どこにいるの。佐和さんがたいへんですよ」 「分かっています。いま、麻布署にきているところです。それで、兄さんには連絡が取れたのでしょうか」 「いいえ、もう退庁なすったあとでしたよ」 「ああ、それはよかった。では、兄さんにはこちらへはこないように願います。報道関係の目がありますから。僕だけでなんとかやってみます。ご心配かけて、すみません」 「それで、どういうことなの?」 「まだ詳しいことは分かりません。分かりしだいご連絡します」  電話を切るのを待っていたように、根岸がいくぶん丁重な態度になって、言った。 「浅見さんは、浅見刑事局長の弟さんなのですか」 「ええ、不肖の弟です」 「確か、私立探偵をされているとか……」 「真似《まね》ごと、です」 「そうですか、あの浅見さんでしたか。いや、お噂はかねがね聴いております。広島県の事件では胸のすくような解決でしたなあ」  浅見の方は、それどころではない。 「これは、どういう事件なのでしょうか」 「まだ、調べ中ですが、一応、傷害致死事件として取扱っています」 「つまり、稲田佐和さんが多岐川さんを刺したということですか」 「そうです」 「すみませんが、発生時から、詳しいことを教えてください」 「えーと、事件発生は一三時〇八分ですな」  根岸は記録を見て、言った。 「『ドルチェ南青山』というマンションの住人から一一〇番通報がありまして。現場近くにいたウチのPC(パトロールカー)が向かったのです。通報の内容は、『若い女の人が、マンションに住む女性を刺殺したらしい』というもので、その女性は被害者の部屋のドアのところにぼんやり立っていたので、直ちに確保しました」 �確保�とは、警察用語で身柄を拘束することをいう。 「目撃者の話によると、通報の直前、現場の部屋の前を通りかかった時、悲鳴が聴こえて、すぐ、ドアが開き、若い女性が飛び出してきて、いきなり、『死んでる』と言ったそうです」 「『死んでる』と言ったのですね。『殺した』では、ないのですね」 「そうです、『死んでる』です。ドアの中を覗《のぞ》くと、リビングルームのドアが開いていて、女の人が倒れているのが見えた。これはたいへんだ、と思い、すぐに自分の部屋へ戻り、一一〇番した、というものです」 「しかし、それでは稲田佐和さんが犯人であるとは言えないのじゃありませんか。彼女は『死んでる』と言ったのだし……」 「それはそうです。まだ捜査が始まったばかりですし、われわれとしても犯人と断定したわけではありませんよ」 「しかし、米村さんの話では、現行犯逮捕とか……」 「ええ、PM(警察官)の判断でそうしましたが、それには理由があります」 「理由?」 「彼女は、凶器と目される短刀を持っていたのですよ」 「短刀……、ですか」 「ええ、鞘《さや》に納まってはいましたが、刀身には血痕《けつこん》が付着していたのです」 「しかし、そんなものを彼女が持っているはずはないのですが、どこから手に入れたのでしょう」 「入手先は、目下のところ不明です。被疑者《マルヒ》は、玄関で拾ったと主張しているようですが、検出された指紋が被害者と彼女のものだけでしてねえ」 「なるほど……」  浅見は、いくぶん、胸をなで下ろした。その程度の材料なら、佐和の犯行と断定する根拠にはならない。 「いかがでしょう、彼女に会わせていただけませんか」 「そうですな、ほかならぬ浅見さんですから、結構ですよ。しかし、私も同席するという条件でお願いします」  根岸は先に立って部屋を出た。  取調室の前で、浅見は大きく深呼吸した。  根岸に続いて入室した浅見を、佐和は怯《おび》えた目でチラッと見た。 「あ、浅見さん……」  救いを求めるように起《た》ちあがった。いっぺんに十年も老《ふ》けたかと思えるほど、精彩のない貌《かお》になっている。 「やあ……」  浅見は静かに微笑《ほほえ》んでみせた。気が付くと、取調官は例の西本警部補だった。浅見の顔を見ると、眉《まゆ》をひそめた。 「妙なことになりましたなあ」 「ご面倒をおかけします」  浅見は言外に、佐和の�保護者�であるという立ち場を明らかにしておいた。佐和は法的にはまだ『少女』に属すのだ。 「ちょっと、私に話をさせてください」  浅見が言い、根岸が、諒解している旨を目顔で知らせた。西本と部下の刑事は取調室を出ていった。  浅見は西本に代わって、佐和と向かい合う椅子《いす》に座った。 「どうしました」  医者が患者を診《み》る口調である。 「私じゃありません、違うんです……」  佐和は眼に泪をあふれさせた。 「最初から順を追って話してください。落ち着いて」  こくり、と頷くのを、浅見は微笑で励ました。 「一時に多岐川萌子さんを訪ねたんですね」 「ええ、一時かっきりに、と言われていたので、時計を確かめながら、一時丁度にチャイムを押しました。でも、答えがないのです。何回か押して、ふと見ると、ドアがきちんと閉まってなくて、それで、何の気なしにノブを引いて、玄関に入ったら、足元に棒のような物が落ちていたので拾いました」  玄関は薄暗く、とっさに判断できなかったが、その�棒のような物�は短刀だったのだ。しかし、その時点では、佐和はまさかそれが重大なことになるとは思ってもいない。 「お部屋に電気がついているし、お湯が沸くような音も聴こえるので、もしかしたら、ちょっとその辺りまで出かけられたのかと考えて、二度ほど声をかけて、待ってみたのです。そして、リビングルームの奥のドアが少し開いている隙間《すきま》から、床の上に女の人が倒れているらしい姿が見えて、それで、多岐川さんが病気か何かで倒れたのではないかと思って……」  佐和は目を閉じ、いやいやをするように首を振った。 「それで部屋に入ったのですね」 「ええ、入っていって、奥のドアを開けたら、多岐川さんが倒れていて、躰《からだ》の下から血が流れているのが見えたのです。すぐ、死んでるって、分かりました。目が開いたまま、ぜんぜん動かないので……。誰かに知らせようと思って玄関を出たとき、男の人が通りかかったので、死んでいるって、確か、そう言ったような気がするのですけど……」 「そのとおりですよ、君はそう言ったのです。ところで、多岐川さんの死体を見た時、悲鳴をあげましたか」 「たぶん、何か叫んだと思います」 「きみが多岐川さんの家を訪ねた目的は、刑事さんに話しましたか」 「ええ、でも、よく分かって貰《もら》えなかったみたいです」 「そうですか、じゃあ、そのことは僕の口から説明しておきましょう。まあ、あまり心配しないで、お巡《まわ》りさんの言うとおりにしていればいいですよ。またあとできます」  浅見は別室で、西本係長から事情聴取の内容を聴き、佐和が言ったこととピタリ一致しているのを確認して、やや安堵《あんど》した。佐和は嘘《うそ》をついていない、と思ったからだ。  だが、警察側はかならずしもそうは単純に受け取っていない。 「浅見さんには悪いが、現段階では稲田佐和の容疑は濃厚ですなあ。彼女以外の不審者を目撃したという話もありませんしねえ」  西本は困惑しながらも、はっきり、そう言った。 「それに、情況的にも、動かしがたいでしょう。先日も何か揉《も》めていたようだし、先刻、聴いた話では、叔父さんが生きているのではないか確かめようとしたとか、妙なこと言ってるんですよ。調べてみたら、叔父さんというのは、二年も前に死んでいるのだそうじゃありませんか。何か、被害|妄想《もうそう》ぎみのところがあるんじゃないですかなあ」 「いや、それは違います」  浅見は、かいつまんで、ここに至るまでの経緯を説明したが、あまりにも内容が複雑すぎて、西本も根岸も納得した様子はなかった。 「それで、まさか、彼女を留置するわけではないでしょうね」  浅見はおずおず、訊《き》いた。 「いや、この状態で釈放はできませんよ。いくら浅見さんでもねえ。それどころか、早ければ今夜にも、逮捕状を請求しようと思っていたのです」  西本係長は腕組みをして、譲らない構えを見せた。  その時、思いがけなく、戸塚署の橋本刑事課長が入ってきた。根岸とは旧知の間柄らしく、軽い挨拶《あいさつ》を交しただけで、すぐ浅見に向き直った。 「えらいことになりましたなあ。多岐川萌子が殺《や》られたって聴いたもんで、飛んできたのだが、殺ったのは浅見さんの知り合いだそうじゃありませんか。こりゃ、いったいどういうことなんです?」 「いや、彼女が犯人だと決まったわけではありませんよ。じつは、彼女は、稲田佐和といって、僕の知り合いというより、稲田教由の姪御《めいご》さんなのです」 「えっ……」  橋本はあっけにとられた。 「すると、復讐《ふくしゆう》、ですか?」 「橋本さんまで、そんなふうに結論を急がないでください。それより、昨日《きのう》から名古屋に行ってまして、そこで重大な発見をしたのです」 「名古屋とこの事件と、何の関係があるんですか?」  そんな呑気《のんき》なことを言ってる場合ではないでしょうと、橋本は歯がゆがっている。 「むろん、関係はあります。今日の事件の端緒は、多岐川萌子が佐和さんを呼び出したことにあるのですが、呼び出した理由というのが、叔父さん——つまり稲田教由が、佐和さんに会いたがっているということだったのですよ」 「えっ、ほんとですか、稲田が遂に現われたのですか」 「僕も、そのことを電話で聴いた時は、そう思いました。ところが、その後でじつに意外なことが分かったのです」  浅見は言葉を切り、唇を舐《な》めた。 「稲田教由と当山林太郎が消息を絶った、昭和三十四年九月末、彼等がいた名古屋で何があったと思いますか?」 「昭和三十四年? えらく古い話ですなあ。しかし、お話の様子では、連中が音信を絶ったことと関係がありそうだから、殺しか何か、未解決の事件があったのでしょうか」 「正直いうと、僕もそんなことを想像していたのです。ところが、現実はもっと大きな事件でした。三十四年九月二十六日には、伊勢湾台風が名古屋付近を襲い、五千人にのぼる死者・行方不明者を出しているのです」 「伊勢湾台風……」 「そうです。それで僕はようやく、稲田教由がその時以後、消息を絶った理由《わけ》が分かりました。稲田は、その日、死んだのです」 「えっ? 稲田が、死んだ……、ですか? 伊勢湾台風で、ねえ……」  浅見が名古屋から持ち帰った、新しい仮説を前に、橋本刑事課長は困惑した。 「稲田教由が二十年以上も昔に死んでいるとすると、この事件はいったい、どういうことになりますかなあ」  通常、警察官に最も欠けているのは、柔軟性《フレキシビリテイ》だといわれる。ことに、橋本のような老練に、その弊が多く見られる。ひとたび心に叩《たた》き込んだ事実認識を、新たな情勢の変化に対応して、つぎつぎに転換してゆく、などというのは、最も苦手とするところだ。  稲田教由を主役のひとりとして組み立ててきた事件で、じつは舞台には稲田教由はいなかった——ということになったのでは、シナリオそのものが存在しなかったような錯覚に陥るのである。 「すると、やっぱり、当山の死は自殺ということになりますか」  案の定、橋本は寝呆《ねぼ》けたことを言った。 「とんでもない」  浅見は思わず、活を入れるような勢いで、言った。 「むしろ、他殺説の論拠が強くなったのではありませんか」 「はあ……、そういうもんですかなあ……。しかし、容疑者が存在していないのですぞ」 「それでは、橋本さん、南品川の稲田教由のアパートの指紋が当山の部屋の電話器にあった事実は、どう説明します?」 「なるほど、すると、やはり、稲田は生きていることに……、え? なに? どういうこっちゃ……」  混乱から脱け出せない。 「つまり、結論を言いますと、連中は、稲田教由という、すでにこの世に存在しない人物をもう一度殺して、保険金をせしめた、ということです」 「死んだ人間を、殺した……」 「そうです。そのためには、死者を蘇《よみがえ》らせて戸籍をはっきりさせる必要がある。南品川のスイートホームがそれですよ」 「じゃあ、南品川のアパートに住んでいたのは、稲田の替え玉だったわけですか?」  橋本はようやく、浅見の論旨が呑《の》み込めた。 「そういうことです。そして、その人物が当山を殺した。そう考えれば、何もかも辻褄《つじつま》が合ってくるのですよ。『しーふらわー』の事件のあと、その人物は、何くわぬ顔で、本来の自分の住所に戻り、生活を続ければいいわけですからね」 「何者です? そいつは」 「そこまでは分かりません。ようやく仮説を樹《た》てたばかりじゃありませんか。しかし、とにかく稲田が消息を絶ったわけは、彼が死亡したとすることで完全に説明できます」 「うーん、しかし、伊勢湾台風の時、当山は死ななかったのに、なぜ稲田の死を隠していたのかな」 「それは分かりませんが、何かそれなりの理由《わけ》はあったのでしょうね」 「そうですか……、稲田は死んでいた、か」 「間違いありませんよ。それを知った時、僕はゾッとしました。稲田教由がその時点で消滅しているとしたら、佐和さんが会いに行った�叔父さん�というのは、いったい何者なのか……」  橋本は、あっという顔になった。 「ワナ、ですか……」 「それしか考えられません。ですから、最初この事件のことを知った時、殺された女性というのは、てっきり佐和さんだと、僕は思ったのです。しかし、それがまったく逆だった。殺されたのは多岐川萌子で、佐和さんが逮捕されていた。テキは一石二鳥の巧妙なワナを仕掛けたのです」 「しかしですよ」と、根岸がようやく口を挿《はさ》んだ。 「そういう男が存在していたと、立証することができますか?」 「いますぐに、というわけにはいきませんが、立証はできるはずです」 「さあ、それはどうでしょうかな。それに、叔父さんなる人物に会いにゆく、というのも、稲田佐和が言ってるに過ぎないのですから、それ自体、信憑性《しんぴようせい》に欠けています。現時点までに収集された材料を見るかぎりにおいては、稲田佐和が多岐川さん宅を訪ね、何か揉めごとがあった末、刺傷におよび、死に至らしめたと考えるのが、最も妥当だと思います。むろん、凶器を用意していったわけではなさそうだし、予《あらかじ》め殺意があったとは思いません。犯行の動機や、その時の情況に正当性があるかどうかも今後の調べにかかっていますが、いずれにしても稲田佐和の犯行という本線は崩せないと思いますよ」  根岸刑事課長は、確信ありげに言った。  浅見は沈黙し、橋本と顔を見合わせた。 第七章 第三の男     1  麻布署を出たのは午後十時に近かった。佐和を�救出�することができず、浅見は身も心も重く、疲れ果てていた。母と兄の憂鬱《ゆううつ》そうな顔が目の前にチラついた。  車を無理にノロノロと走らせ、自宅へ辿《たど》りつく時間を少しでも引き延ばそうという、ばかげた試みまでする始末だ。  平塚神社の前で車を停めた。だが、名物団子の店はとっくに店を閉め、境内にところどころ立つ街灯だけが、侘《わ》びしい光を投げている。  浅見は車を降り、社殿の方向へ歩を運びながら、あれこれ思いめぐらせた。欅《けやき》や椎《しい》の巨木が茂る境内は子供の頃の遊び場だった。考えてみると、二十年近くも、この道を歩かなかったことになる。 (故郷か——)  ふと、浅見は思った。ふるさと意識を持たない東京人、という通説に抵抗を感じたことのない浅見が、いま、この地に故郷を感じていた。人間だれしも、苦境に立つと望郷の念に駆られるものらしい。いまごろ、きっと、佐和の魂は故郷、藤ノ川へ飛んでいるだろうな、と思い、愍《あわ》れでならなかった。  佐和に多岐川萌子殺害の容疑がかけられているというのは、浅見にしてみれば、まったくばかげている。ところが、いざそれを反証しようとすると、かなり難しい。警察が佐和の供述に疑いを持っている以上、客観的に佐和の潔白を認めさせるには、トカゲの尻尾《しつぽ》切りのように、多岐川萌子を殺して逃走した、�第三の男�の存在を立証するしかない。  しかし、�第三の男�の手がかりは何ひとつないというのが現実だ。あるのは、わずかに、当山の部屋と南品川のアパートから採取された指紋だけである。萌子の部屋にもそれが遺《のこ》されている可能性は、あまり期待できない、と浅見は思った。かりにあったとしても、前歴のない指紋から人物を割り出すことは、ほとんど不可能だろう。  残るのは、南品川に住んでいた当時の『稲田教由』のモンタージュ写真を作成することぐらいだ。大家の婆さんや保険のセールスなど、少なくとも数人が『稲田教由』を目撃しているはずだ。しかし、それによって鮮明なモンタージュが作れるかどうかとなると、かなり疑わしい。記憶も曖昧《あいまい》だろうし、第一、警察が気を入れてその作業をやるかどうかも分からない。なにしろ「稲田教由替え玉説」は、浅見が主張している仮説でしかないのだから。  そればかりか、今回の南青山の事件が�第三の男�の犯行だ、とする浅見説すら、警察に認められる可能性は、きわめて薄い。  とどのつまり、�第三の男�の存在は、自分の手で掴《つか》むしかないのかもしれない、と浅見は覚悟をきめた。  いつのまにか社殿の前まできていた。浅見は柄にもなく賽銭箱《さいせんばこ》に小銭を投げ、社殿に向かって拝礼した。  そのあとで、ふと、この神社の祭神が源頼朝であることを思い出した。平家の末裔《まつえい》である佐和の無事を、源氏の頭領に祈るのは筋違いかな、と思い、そう思った時、しぜんに笑みが浮かんだ。  社殿の左手を抜けて裏山へ出る道がある。昔、よく通った小道だが、ほとんどその当時のままで残っているらしい。  浅見は覚束《おぼつか》ない足元を探り探り、裏山への小道を辿《たど》った。闇《やみ》の中でのこの作業は、まるで手がかりの見えない�第三の男�を追うのとよく似ている、と思った。  誰もいないつもりの裏山のどこかで、人の声がした。浅見は意識しないまま、跫音《あしおと》をしのばせるような歩き方になっていた。  男と女が抗《あらが》うような声である。 「だめよ」と女が言い、「いいじゃないか」と男が迫っている。  具合の悪いところに来合わせた、と、浅見は苦笑し、歩みを止めた。これでは思索するどころではない。踵《きびす》を返した時、「待てよ」と声がかかった。浅見は思わず足を止めたが、もちろん、それは会話の続きだ。少年っぽさの残る声である。 「ねえ、いいだろう、マサエさん」  浅見はいよいよ、照れた。  だが、その直後、強烈なショックが浅見を襲うことになる。 「だめよ、しつこいわね、ヨッちゃん」  浅見は背後から棍棒《こんぼう》で殴られたように、足が竦《すく》み、つんのめりかけた。  ——しつこいわね、ヨッちゃん。  そのフレーズが、谺《こだま》のように脳の中を往き来する。  多岐川萌子に何度も電話して、ようやく出た相手から最初に投げつけられた言葉が、それとまったく同じだった。 『ヨッちゃん』とは、何者だったのだろう——。  親密さと邪険が同居したようなあの言い方から、萌子と『ヨッちゃん』の関係がとおりいっぺんのものでないことを想像できる。 『ヨッちゃん』こそ、�第三の男�ではあるまいか——。  その疑いが、浅見の胸の裡《うち》で急速に広がっていった。  次の日の夜、浅見は銀座六丁目にある萌子の店『女優』を訪ねた。当然、休業しているものとばかり思っていたら、なんと、店には客が溢《あふ》れていた。美人経営者の死の真相を肴《さかな》に飲もうとでもいうのか、浅見は、情報に群がり漁《あさ》る社会の風潮の縮図を見る想いがした。  店の者たちも経営者の死はどこ吹く風、陽気に振舞っている。その中で浅見は、バーテンや、何人かのホステスから『ヨッちゃん』という名に心当たりがないか、訊いた。 「ないわねえ」と異口同音に答える。バーテンや出入りの商店員などにも、その名はなく、お客にもそういう呼び名に該当する人物はいないということであった。 「ママはマナーに厳しくて、どんなに親しくなっても、お客さまを愛称や渾名《あだな》でお呼びするなって、やかましく言ってましたから」  そういうママが、自ら、客を『ヨッちゃん』呼ばわりする道理《わけ》がない、というのである。そのことを言った女《こ》が、ふっと泪ぐんだ。 「萌子さんというのは、いいママだったのかい」  浅見は訊いてみた。 「そうねえ、厳しかったけど、女のコの辛《つら》さみたいなことには理解があったわ。成績のあがらないコに優しかったし……」  自分がそうだったのか、しんみりと言った。 『女優』を出て、浅見は『サルート』へ寄った。そこでも萌子が殺された事件は話題になっていた。ママの恵美は浅見を憶えていて、 「また真弓さんのこと?」と、先手を打って訊いた。しかし、『ヨッちゃん』の手がかりは、やはり掴めない。恵美はこまめに従業員たちのあいだを回って訊いてくれたけれど、結局、誰ひとり心当たりはなかった。 「なんなのですか、そのヨッちゃんとかいう人?」  さんざん手間をかけさせられたあげくに、恵美が訊いた。 「萌子さんが親しく付き合っていたらしいのだが、いくら調べても、そういう人物がみつからないのですよ」 「結婚してからの知り合いじゃないんですか?」 「さあ、そうかもしれないが……」  浅見は返答に窮した。まさか、結婚した、当の相手だとも言えない。 「でしたら、ご主人の方のお友達か何かじゃありませんの?」 「いや、それは絶対に違う、……と思うが」  言いながら、浅見はふと、思いついた。 (もしかすると、当山の方のセンではないだろうか——)  元はといえば、『稲田教由』をデッチ上げて、保険金詐取のシナリオを書くことのできる人物は、当山林太郎を措《お》いて、いない。つまり、当山は自作自演の芝居を実行するために、自分を含めて三人の�俳優�が必要だった。その当山がキャスティングを行なったとすれば『稲田教由』役の男は、萌子の知人関係であるより、当山の周辺にいた人物であった可能性の方が強いのではないか。  翌日、浅見は早稲田の古本屋・富岡《とみおか》を訪ねた。当山の店『藤ノ川』の定連の中では、最も消息通の男だ。あらためて名前を訊いてみると、富岡|圭二《けいじ》だという。 「『藤ノ川』では『ケイちゃん』と呼ばれていたのではありませんか?」  浅見はカマをかけて、訊いてみた。 「へえっ、よく分かりますなあ。たしかにね、『藤ノ川』じゃ、定連同士、親しくなると、そんなふうに呼び合いましてね。マスターがタロちゃん。サブちゃん、ジュンちゃんなんてのもいたな」 「ヨッちゃんという人はいませんでしたか」 「ヨッちゃんね、いましたよ」 「えっ、いたのですか!」  浅見はおもわず、声が上ずった。 「ええ、定連のひとりでね、たしか、翻訳の仕事か何かやってる人で、すぐそこのアパートに住んでたけど、この三月頃、引越したみたいだね」 「名前は……、苗字はなんていうのです?」 「伊藤《いとう》……さんじゃなかったかな。そう、伊藤さんですよ」 「伊藤……」  ありふれた名前だが、この事件に関しては、聞いたことがない。 「伊藤善幸、ですよ。総理大臣みたいな名だって、からかったことがある」 「その伊藤さんですが、どういう人でしたか」 「おとなしい、まじめな人だったですよ。どっちかっていうと、目立たない感じで、私なんかと違って、でしゃばらないし、タロちゃんとも気が合って、店が終わってから、二人で飲みに出かけたりしてたみたいだね」 「独身、でしたか」 「ああ、独り者でしたよ。いや、それどころか、あの人は童貞じゃないか、なんて、みんな言ってました」 「年齢はいくつぐらいでしょう?」 「さあねえ、三十八、九ってとこじゃないですかねえ」  浅見が思い描いているイメージとは、合致する。  古本屋に道を教わって、伊藤が住んでいたというアパートを訪ねてみた。印刷や製本の下請工場が並ぶ雑駁《ざつぱく》な街の一隅に、青ペンキの剥《は》げ落ちた木造モルタルの古いアパートがあった。入口に『あけぼの荘』という看板がかかっている。玄関に「盗難防止のため、履物は各自、部屋へお持ち下さい」と書いた紙が貼《は》ってあるのが、いかにもうらぶれた感じだ。  入ってすぐの部屋が管理人の住居だった。  頭髪の薄い、痩《や》せた老人が管理人で、よほど人がいいのか、終始、にこにこと応対してくれた。 「伊藤さんなら、三月中旬に、引越して行かれましたよ」 「そうだそうですね、それで、転居先はどちらなのでしょうか」 「郷里《いなか》へ還るとか言ってましたから、ええと、たしか、長野県じゃなかったですかな……」  老人は奥へ入って、住所録を持ってきた。 「やはりそうでした。長野県|小諸《こもろ》市|糠地《ぬかじ》……」  浅見は、その難しい地名を手帳にメモした。 「伊藤さんは、いつ頃から、こちらにお住まいだったのでしょうか」 「そりゃ、あんた、ずいぶん長いですよ。なにしろ、あたしがきたのが十四、五年前だが、伊藤さんはそれ以前からの住人ですからな、二十年近く、住んでたのじゃないですか。早稲田の学生だった頃から、と聞いたような気がしますよ」 「ほう、早稲田の出身ですか……」  意外だった。早稲田を卒《で》て、こんなところに住み続けていたというのは、珍しい。 「何か、翻訳の仕事をなさっていたそうですね」 「ええ、そのようですな。初めの頃は、会社勤めをしておられたようだが、それも一流会社だったそうですが、うまくいかなかったらしくて、かれこれ十年、いや、もうちょっと前になりますかなあ、なんだかノイローゼみたいなことになりましてな、会社を休むことが多くて、それからまもなく勤めを辞《や》めて、それでその、翻訳ですか、そういったような仕事を始めたみたいですよ」 「おとなしい、まじめな人だそうですね」 「ええ、そのとおりです。まあ、縁談の相手としては、安心できるでしょうな」  管理人は、浅見を興信所の人間と思っているらしい。 「つかぬことをうかがいますが、伊藤さんは、四年前頃から、ちょっと変わったところがあったということはありませんか」 「変わったところ?……」 「ええ、たとえば、よく部屋を留守にするとか……」 「ああ、そういえば、仕事が忙しくなって、出張が増えたとかで、時々、留守をされましたな。そのために、留守番電話を入れたとかいってました。しかし、それは一時期のことでしたよ」 「二年間ぐらい、ではありませんか」 「二年間ねえ……、そういわれてみると、そのくらいでしたかなあ……」  ほぼ、満足すべき結果だった。浅見はその足で、愛車を駆って長野県へ向かった。  関越《かんえつ》自動車道で高崎《たかさき》まで行き、そこから国道18号になる。碓氷峠《うすいとうげ》、軽井沢《かるいざわ》は、まだ新緑の季節だった。小諸到着が午後三時過ぎ。地図を読み直して、右手の坂道に入り込む。うねうねと曲がりながら登る道の両側は水田で、田植えをひかえた農作業が、ここかしこで始まっている。傾斜地に造成した水田は、区画の面積が小さく、高い位置から見ると鯉《こい》のうろこを連想させた。  ちらほら咲きはじめたアカシアのトンネルを過ぎると、リンゴ園の中をゆく道になった。人家がひとかたまりに軒を寄せている。『学生村』の看板が見えた。リンゴ園の向こうにはテニスコートらしいものがあるから、おそらく夏季の民宿村なのだろう。その集落の真ん中あたりで、通りすがりの農夫に道を訊ねた。伊藤家は、さらにその先だという。 「一軒しかねえから、すぐに分かるだよ」  道は舗装が切れ、河床《かわどこ》のような丸石が露出した悪路になった。左右に唐松《からまつ》林がせまっている。急に気温が下がった。  急坂をいくつか登ったところで林の中に畑地《はたち》が展《ひろ》がっていた。畠そのものもかなりの傾斜だが、さらに傾斜のきつい、窮屈そうな地形の場所に小屋のような家がある。庭先に遊ぶ鶏どもを驚かさないように車を駐《と》め、浅見が降り立った時、暗い家の中から老人が現われた。粗末な作業着姿で、銀色に光る不精髭《ぶしようひげ》を生やしている。老人は感情のない眼で、浅見を見た。 「伊藤善幸さんのお宅は、こちらでしょうか」 「伊藤はわしの家だが、善幸はおらんよ」 「お留守、ですか」 「いや、あれはずっと東京だから……」 「たしか、東京からこちらへ引越されたとうかがいましたが」 「いや、戻っておらんよ」 「はあ……」 「あんた、東京から来たかね」 「ええ」 「善幸の友だちですか」 「はい、まあ、そういうところです」  中途半端な答えに、老人ははじめて不審の色を見せた。浅見は逆に問いかけた。 「善幸さんのお父さんですか?」 「そうです」 「それじゃ、善幸さんが引越されたことは、まだご存じなかったのですね」 「ああ、ここ何年も便りをもらってないからねえ」 「では、早稲田の住所しかご存じないわけですね」 「ああ」 「こちらに帰ってこられることもないのですか」 「帰ってきても、しようがなかろう、こんな家ではな……」  老人は自嘲《じちよう》するような眼で、荒れ畑を見渡した。 「ソバ畑ですか」 「ああ、ソバかジャガイモしか育たんような土地だ。満州から還ってきて開墾《かいこん》した頃には、仲間が何人もおったが、結局、残ったのはうちだけだ。どうにもならん土地でな。しかし、ほかに行くあてもない。若い者《もん》は出て行けば、ことが済むが、年寄りはどうすることもできん」 「息子さんは、善幸さんお一人ですか」 「いや、次男がおって、町の材木工場で働いておりますよ。善幸の方は勉強のできる子だったで、早稲田の夜間部へ入って、なんとかいう、一流会社にも入れたそうだが、その内に東京へ呼ぶとか言っとったのに、いつのまにやら立ち消えになってしまって……、会社も辞めたそうだし、嫁ももらえんほどだから、苦労しとるんじゃないかな」 「しかし、善幸さんは、たしか二年ばかり前、だいぶいい仕事があって、かなり儲《もう》けたという噂でしたが……」 「ああ、それなら、四年ほど前のことだね。まとまった金になる仕事をみつけて、うまくいけば、嫁ももらえるようなことを言ってきましたよ。だが、それっきり……。うまいこと、いかなかったんでしょうや」  老人は、ふと気付いたように、「中へ入って、お茶でもどうです」と言ってくれた。人恋しさがあふれた表情をしている。 「ありがとうございます。でも、急いで戻らなければなりませんので……」  これ以上、老人と付き合っていては、情が移りそうで、浅見は不安を感じた。 「そうかね、どうも、若い者《もん》はみんな先を急ぎたがる。いくら急いでも、帰るところはひとつだろうに……」  年老いた農夫にしては、含蓄《がんちく》のある言葉をいう。息子を大学へ送ったことといい、かつての満州では、ひとかどの暮らしをしていたことが想像できる。浅見の知らない時代のことだが、世が世ならば、こんな辺鄙《へんぴ》な痩《や》せ地を開墾し、窮乏に耐えて暮らすようなこともなかったに違いない。 (これは、現代の隠れ里だな——)  浅見はふと、そんなことを思い、藤ノ川の稲田広信老人を、目の前の老人にオーバーラップさせていた。 「善幸に会ったら、いつでも帰ってこいと伝えてくださいや」  運転席の浅見を覗き込むようにして、老人は言った。 「お伝えします、きっと」と答えたけれど、伊藤善幸がこの故郷に還る日があるかどうか、浅見には自信がなかった。  坂道を下り、林の角を曲がる時、振り返ると、老人はまだ、そこに立って見送っていた。     2  小諸の街へ入ってから、浅見は戸塚署の橋本刑事課長に電話した。 「早稲田の『あけぼの荘』というアパートに住んでいて、三月に引越していった伊藤善幸という人物の転居先を調べてください」 「なんです? やぶから棒に……」 「詳細は帰ってから……、いま、小諸にいるのですが、とにかく急いでほしいんです」 「しかし、その伊藤っていうのは、いったい何者ですか」 「まだ確かなことは言えませんが、稲田教由に化けた男ではないかと……」 「なんですと?……じゃあ、ついに発見したのですか」 「いや、ですから、はっきりしたことは分かりませんよ。それを調べてもらいたいのです」 「分かりました、すぐかかりましょう」 「あ、それでですね、伊藤は、管理人に対しては、郷里へ帰ると言っていたようですが、実際には、郷里の長野県には戻っておりません」 「なるほど、嘘をついてるわけですな。そいつは大いに怪しい」 「ですから、行先は、運送屋にあたるか、あるいは電話局で……」 「浅見さん、そこから先は任しといてくださいよ。まがりなりにも、警察の看板を張ってますからな」 「あ、これは失礼……」 「あはは……、まあ、浅見さんが帰ってくる頃までには、外国へでも逃げていないかぎり、ヤツの居場所をつきとめておきますよ」  その言葉どおり、浅見が戸塚署に顔を出した時には、すでに伊藤の転居先は割れていた。橋本は緊張しきった顔で浅見を迎えた。 「驚きましたなあ。伊藤という男、いったい、どこへ引越していったと思います?」 「さあ、その口ぶりだと、さぞかし意外なところなのでしょうね」 「意外も意外、ですよ」 「そう、もったいぶらずに、教えてくれませんか」  浅見は、笑いながら催促した。橋本は相変わらず、怕《こわ》いような顔で、頷いた。 「その移転先というのはですよ、なんと、あの、『ドルチェ南青山』だったのです」 「えっ……」  さすがの浅見も、そこまでは予期していなかった。 「しかもですね、多岐川萌子が刺された時、一一〇番をした男というのが、その伊藤善幸なる人物だったそうです」  浅見の驚愕《きようがく》に追い討ちをかけるように、橋本は言った。  とつぜん、浅見は笑いだした。おかしさがこみあげてくるのを、抑えられない。  まったく、どうしてそんなかんたんなことが分からなかったのか不思議な気さえした。笑いと一緒に、泪が湧《わ》いてきた。  五月七日、『ドルチェ南青山』の三〇二号室に住む伊藤善幸を、二人の刑事が訪ねている。ひとりは西本警部補で、伊藤は前に会っているから、気さくに挨拶した。 「先日はどうも、また何か、ご用ですか」 「ええ、ちょっと見ていただきたいものがありまして、署までご同行願いたいのですが」  西本の無表情な言い方が、伊藤は少し気になった。 「弱りましたねえ、ちょっと手が放せない仕事をやってるものですから」 「いや、時間はかかりません。とにかく至急に済ませたいのです」  うむを言わせない姿勢だ。伊藤の反抗心は急速にしぼんだ。  外出着に着替え、部屋を出る時、何か忘れ物をしているような気がして、伊藤はあらためて、部屋の中を振り返った。まるで、遠い旅に出るような寂寥《せきりよう》が襲ってきた。 「お待たせしました」  陽気なふうを装ってみたが、二人の刑事はにこりともしない。伊藤の前後を挟むようにして、パトカーに誘《いざな》った。 「なんだか、連行されてるみたいですね」  パトカーに乗り込みながら、伊藤は往来の人々の目を気にして、わざと大きな声で言った。  麻布署に着くと、伊藤は応接室のような部屋に案内された。取調室にでも入れられるのかと思っていただけに、いくぶん愁眉《しゆうび》を開いた。  大きなソファーと、肘掛椅子《ひじかけいす》が四脚、粗末なテーブルを囲んでいる。 「ここで待っていてください」  西本は伊藤を肘掛椅子に座らせ、部下を張り番に置いて、出ていった。  五、六分経ってから、男がひとり、入ってきた。スーツをきちんと着た様子は、刑事ではないらしい。伊藤と向かい合うソファーの端に腰を下ろし、軽く会釈した。  伊藤も誘われるように、頭を下げた。 (どこかで会ったことがあるな——)  そう思って見ていると、相手の男も同じように、不審そうな顔をしている。  またひとり、同じような服装をした男が現われ、前の男の隣に座った。その男にも見憶えがある。その男も怪訝《けげん》な目付でこっちを見ている。しきりに記憶を探っている様子だ。  次は中年の女性だった。モスグリーンのツーピースがだいぶ草臥《くたび》れていて、不恰好なバッグを持っているところは、まるで保険屋のおばさんだ。  そう思ったとたん、伊藤は頭からさあっと血の気が引くのを感じた。その女も含め、目の前にいる三人全部の記憶が、いちどに蘇《よみがえ》った。震えるほどの寒さを感じているにもかかわらず、額からは冷たい汗がフツフツと湧いてくる。  四人目の人物が入ってきた。小太りの老婦人だ。空いている肘掛椅子に座ろうとして、伊藤に気付いた。  穴のあくほどみつめ、口をあんぐり開け、そしてついに、叫んだ。 「あんた、稲田さんじゃないのさ……」  伊藤は、よろっと起《た》ちあがった。 「ちがいます。私は伊藤です」 「何言ってんのよ、稲田さんじゃないの」  南品川のアパートの大家は、口を尖《とが》らせた。保険会社の三人も起ちあがっていた。  伊藤は尻込《しりご》みするように、椅子から離れ、ドアへ向かった。 「部屋を出ないでください」  大柄な刑事が、伊藤の躰《からだ》を押し返した。伊藤は拳《こぶし》を振り上げ、絶望的な突進を試みた。刑事は軽く足払いをかけた。伊藤が膝《ひざ》をついた目の前でドアが開き、根岸刑事課長を先頭に、数人の刑事が立っていた。 「伊藤善幸、保険金詐取ならびに当山林太郎および多岐川萌子殺害の容疑で逮捕する」  根岸が重々しい声で言った。  伊藤善幸は思ったより素直に、犯行を全面自供した。もっとも、自らすすんで犯罪ストーリーを語ったわけではなく、取調官の質問に答える形で犯行を認めている。  取調べにあたった西本警部補は、こんな小心な男にあれほど大胆な犯行ができるとは信じられない、と言っていた。 「すべて浅見さんのお蔭ですよ」  捜査会議に特別参加した浅見に向かって、根岸刑事課長は深々と頭を下げた。 「それにしても、多岐川萌子を殺したのが伊藤だと看破《みやぶ》ったのには恐れ入りましたよ」 「いえ、まぐれです」  浅見は頭を掻《か》いた。確かに『ヨッちゃん』という人物が浮かんだのは偶然の所産だ。 「本当をいえば、稲田佐和さんに容疑が集中した時点で、犯人はマンション居住者——とくに、目撃者である可能性が強いことを悟っているべきだったのです」 「ほう、それはまた、どういうわけで?」 「佐和さんを容疑者にした最大の理由というのは、犯行の前後、あのマンションを出入りした人物がなかったことでしょう? そのことが、佐和さんの供述を疑わせたわけですから、もし、逆に佐和さんの供述を正しいと信じれば、犯人は事件後、マンションから出ていない人間、つまり、居住者だということが明らかだったのです。ところが、警察は佐和さんの供述を疑ってかかっているし、僕は僕で、出入りした人間がいない、という事実を信じなかった。どうも、相互の信頼関係が希薄だったようですね」 「そりゃあ、浅見さん。われわれに、あなたと同じ程度、稲田佐和さんを信じろというのは無理というものですよ。たしかに、信じたくなるほど、魅力的なお嬢さんではありますがね」  根岸課長のジョークに、捜査員たちはドッと笑った。全員が浅見光彦に対して好感を抱いている。 「それにしても、伊藤が多岐川萌子と同じマンションの、しかも同じフロアに住んでいたというのは、大胆といえば大胆だが、いささか無謀としか言えませんなあ」  西本警部補が嘆息まじりに言った。 「これもやはり、愛の力ということでしょうかねえ」  柄にもない言葉に、また、笑いが湧いた。 「いや、笑いごとでなく、ちょっと常識では考えられんぜ」 「西本さんの言うとおりかもしれません」  浅見は、しんみり、言った。 「伊藤という男、よほど萌子に惚《ほ》れきっていたのでしょう。いまどき珍しい、純情な人間だったにちがいありませんよ」  その観測は当たっていた。  ——当山さんから、はじめて萌子を紹介された時から、萌子は私の心を奪ってしまったのです。  伊藤はそう述懐している。  伊藤は『稲田教由』という人物になりきって、多岐川萌子と偽装結婚した。当山は萌子にも『稲田教由』の本性を明かさなかったのだ。  当山林太郎が伊藤に�保険金詐取�のプランを持ちかけたのは四年前の正月だった。  その頃、伊藤は貿易関係の会社を辞め、翻訳の下請のような仕事を自宅で二年ほど続けていた。伊藤は内向性の強い性格である。それが原因で、いくつもの会社を転々とした。翻訳の仕事は収入はせいぜい二十万程度にしかならないが、安アパートに独り暮らしでいる分には、贅沢《ぜいたく》さえしなければ充分、やっていけた。  独身主義というわけではなかったのだが、三十五歳になるその時点まで、結婚に結びつくような�状況�には一度も恵まれなかった。男として人並みの肉体は持っているつもりなのに、女性との交際がある程度まで進み、(これは——)と思い始めると、どういうわけか、相手はそれとなく距離を置き、やがて遠ざかる。女が無口になり、曖昧《あいまい》な微笑を浮かべるようになるのが心変わりの徴候だ、と、伊藤は何度かの経験を通して思い込むようになった。  じつは、女のそういう態度は、伊藤自身の硬直し、屈折した心理の投影に過ぎないし、おそらく、触れなば落ちん、という風情を示した女性も何人かいたのかもしれない。そういうポーズすらも、伊藤は変節の徴候と受け取ったのだ。そうして万事に消極的になるにつれ、女運はますます遠退《とおの》くばかりだった。  当山にとって、伊藤という人間を発見したことは、プランを実行する上で、ひとつのキッカケになったに違いない。独身であること。自由のきく職業であること。まじめで内向的な性格。年齢的にも、また、地方出身者で東京に係累がいない点も、条件的にぴったりだった。  当山の�プラン�には説得力があった。何よりも、伊藤をその気にさせたのは、当山が自ら言うように、百万にひとつのチャンスを持っているということだ。  保険金詐取といえば、伊藤の知るかぎり、二種類の方法に限定される。ひとつは被保険者を殺害する方法であり、もうひとつは、被保険者自身が死亡を偽装し、潜伏することだ。どちらの方法にしても、成功の確率は小さく、あまりゾッとしない。だが、当山のプランは、すでに死亡した人間が保険契約をし、事故死する、というものだった。そのための�条件�が当山にはあった。  まだ少年の頃、当山は稲田教由を誘って故郷を出て、ひと旗揚げようと、名古屋へ向かう途中、伊勢湾台風に遭遇した。その結果、当山は無二の親友であり、当山父子を救ってくれた恩人の息子でもある稲田を見殺しにすることになった。しかも、その時、当山はその場所で男をひとり殴り倒し、結果的に殺している。  殺人者と背信者、二つのレッテルを自らに課して、当山はその後、贖罪《しよくざい》の人生をひっそりと歩むことになった。もちろん、稲田教由の死を藤ノ川へ報《し》らせることなど、彼にはできるものではなかった。  そして、五年前の暮近く、ふとした風の便りで、稲田家の不幸を知った。教由の兄であり当主でもある信隆《のぶたか》が死んだというのである。あとには年老いた広信と、孫の佐和だけが残った。  その時、当山ははじめて、保険金詐取のプランを考えついた。それによって得た金を稲田教由の遺産として藤ノ川へ送ろう、と思ったのだ。  当山のその考えが、伊藤を共感させた。単に欲得ずくだけではない、いわば大義名分のある仕事であるところに惹《ひ》かれた、と、伊藤は供述している。  二人は、還るべくもない故郷を持つ者同士であるということで、さらに理解を分かち合えた。そして、多岐川萌子を知るまでは、伊藤の当山への傾倒ぶりは徹底していたのだ。  だが、萌子と�結婚�し、彼女の肉体の虜《とりこ》になるや、伊藤の当山に対する誠心は消えていった。  ——あの女が、私も当山さんも破滅させたのです。  魂が抜けたように、淡々とした喋《しやべ》り方だった伊藤が、その時だけ、燃えるような眸《ひとみ》になった。伊藤は多くを語ろうとしなかったけれど、萌子への溺愛《できあい》は相当なものだったらしい。そういう関係が生じてまもなく、伊藤は当山のシナリオのすべてを萌子に語り、自分が『稲田教由』でないことを打ち明けた。  ——その時点で、三人の信頼関係は崩れたと言っていいのかもしれません。  と、伊藤は言っている。しかし、作戦完了までは、計画どおり、すべての作業が抜かりなく行なわれた。  伊藤は�結婚�後も早稲田のアパートに住んでいる形跡を装い続けている。留守番電話を設置して、翻訳の仕事を従来どおりに受けていた。計画の中で伊藤のこの二重生活が、じつはもっとも重大な意味をもつものであった。『稲田教由』の消滅と同時に、伊藤は本来のあるべき姿に戻る。そこに二年間の不在の不自然さを感じさせてはならなかったのだ。  以後の経過は、浅見が推理したのと、驚くほど酷似している。『しーふらわー』での�転落�のトリック。当山の�事故死�と密室のトリック。いずれも、浅見の指摘と寸分|違《たが》わない方法によっていた。しかも、南品川のアパートと当山の部屋に残されていた指紋が一致した件を話すと、伊藤は「そこまで完璧《かんぺき》な捜査が行なわれていたとは思いませんでした」と、すっかり兜《かぶと》を脱いだのである。  ただ、ひとつだけ浅見にも分からない点があった。それは、当山殺害の動機だ。折角、保険金詐取をまんまとやり遂げた彼らが、殺し合いまでやらなければならぬほどの仲違いをした原因は何か——。  ——すべて、萌子が悪いのです。  と、伊藤は言っている。  伊藤の話によると、当山は保険金詐取を実行するにあたって、萌子と伊藤に条件を示している。それは、詐取した金の内から三千万円を『稲田教由』の遺産として、藤ノ川の実家へ送る、ということだ。「三人が一千万ずつ拠出する」ということに決まっていた。  ところが、実際に送金されたのは、当山の拠出分だけで、萌子は自分の義務を果さなかったばかりか、甘言《かんげん》を弄《ろう》して伊藤の分まで取り上げてしまった。  当山はもちろん、激怒した。しかも、萌子が勝手に、余分な保険契約を行なっていたことを知り、それを公平に配分するのでなければ、自分はどうなろうと構わないから、何もかもぶちまける、とまで言って脅した。いや、単なる脅しでなく、当山なら実行しかねないと伊藤は思い、萌子は懼《おそ》れた。 『しーふらわー』以後、三人の仲間がおおっぴらに会ったことは、もちろん、ない。萌子の肉体のうまさに溺《おぼ》れきった伊藤の欲情は飢餓状態にあった。萌子は彼のその弱点を衝《つ》いて、ほとんど言いなりに、伊藤を操った。伊藤の取り分である金も、銀座に店を出す資金として勝手|気儘《きまま》に使った。そうして、その代価として、時折、ホテルで肉体を与えてやっていた。  当山を殺す条件に、萌子は『ドルチェ南青山』の、まだ買い手のついていない部屋に伊藤が住むことを認める、という魅力的なエサを示した。伊藤にしてみれば、抗しようのない誘惑であった。�密室殺人�のトリックは伊藤のアイデアであったという。  ところが、当山の殺害に成功し、念願どおり、萌子の隣人となったにもかかわらず、萌子の伊藤に対する仕打ちは冷たかった。「隣に住むことは認めたけど、いままでどおり付き合うとは言わなかったわ」と、萌子はうそぶいた。  ——その頃、萌子には男ができていたのです。  伊藤はそう言っているけれど、ほんとうに萌子に恋人がいたかどうかは、はっきりしない。かりに特定の男はいないにしても、萌子が口癖のように言っていたように、「付き合う世界が変わった」のだから、面白味のない伊藤など、いまとなっては嫌悪の対象でしかなかったとしても、理解できる。  しかし、伊藤にとっては、それは許しがたい背信行為だった。  萌子は伊藤の哀訴を踏みにじるような言動をくり返した。時には、わざと、これ見よがしに、男の姿をちらつかせたりもした。しかも、伊藤がマンション購入の資金調達に苦しんでいるのを知りながら、いったん取り上げた伊藤の分配金をほとんど猫ババしたままだった。  伊藤の鬱屈《うつくつ》した心の中で、萌子に対する殺意が確実に成長していった。  浅見や佐和が萌子に接近したのは、丁度、そういう時期だった。  萌子はいつになく怯《おび》えた様子で、伊藤に事態の切迫している気配を伝えた。ことに、佐和の訪問によって、�捜査�がかなり核心に及んでいることを知った萌子のうろたえぶりは、破綻《はたん》が近づいていることを想わせた。 「ヨッちゃん、なんとかしなさいよ。あたしはいいけどさ、当山を殺したのはヨッちゃんなんだから……」  その言葉を聴いた時、伊藤ははっきり、萌子を殺そうと思ったという。  ——萌子さえ消してしまえば、私は安全だと思いました。  伊藤は萌子を殺した動機についてそう語っているがそれ以前に、萌子に対する憎悪があったことは確かだ。  愛と憎悪が、結局は、伊藤を盲目にし、かつ、不敵な犯罪者に仕立てた。 「稲田佐和は始末しよう。そのための短刀を買っておいてくれ」  伊藤の指示に従って、萌子は短刀を仕入れてきた。まさか、その短刀が自分を刺す凶器になるとは思いもよらぬことだったろう。  その日——、伊藤は一時少し前に萌子の部屋に入り、短刀で萌子を刺した。  萌子は一瞬、愕《おどろ》いた眼をいっぱいに見開いたが、物を言う間《ま》もなく、死んだ。  伊藤は短刀を鞘《さや》に納めると、玄関のタイルの上に置き、ドアを薄く開けた状態にして、自分の部屋へ戻った。  ——これで完全犯罪が成立した、と思いました。  伊藤はそう語ったあとで、不可解な笑いを浮かべたそうである。 エピローグ 『しーふらわー』は純白の船体を埠頭《ふとう》の先端に横たえていた。船腹に描かれた原色の太陽が、トロピカルなムードで楽しい船旅への期待をかきたてる。 「また独り旅ですね……」  浅見はなるべく佐和の方を見ないようにして、言った。 「こんど、あれに乗る時は、ご一緒しますよ」  婉曲《えんきよく》なプロポーズのつもりだけれど、佐和に通じるかどうか、自信はなかった。 「いつ、ですか?……」  佐和は、黒い眸《ひとみ》をいっぱいに見開いて、まっすぐ、浅見を見た。打てば響く怜悧《れいり》さに、浅見は満足した。 「いつでも……君しだいです」 「じゃあ、いま……」  言ってから、さすがに赧《あか》くなった。 「うそ、です……」  海の方を向いて、急に黙りこくった。  乗船客たちが、三々五々、船腹に吸い込まれてゆく。埠頭には見送りの人数も増えている。気の早い客が船上からテープを投げ、そのたびに何やら喚声があがった。 「さあ、そろそろ行った方がいい。堀ノ内に頼んであるから、心配することはないと思うけど、気をつけて……」 「はい」  佐和はクルッと振り向いて、「お世話になりました」と頭を下げた。 「僕はここで送ります。お祖父《じい》さんによろしく……」  佐和は行きかけてから、もう一度、止まった。 「テープは投げません。あれ、切れるから、きらいなのです」  浅見は思わず笑った。そんなことを言ったくせに、やがて舷側《げんそく》から上半身をのぞかせた佐和は、赤いテープを二本、投げて寄越した。一本は逸《そ》れたけれど、一本を、浅見は手にすることができた。乾いた、はかない感触が、それだからこそ貴重なもののように思え、浅見は注意深くテープを握った。  佐和がそっと引いているのか、それとも、ただ風になびくせいか、テープにかすかな音信が伝わってくる。 (赤い糸の伝説——)  浅見はふと、そんなことを思っていた。そして、佐和の躰《からだ》に流れる平家一門の血ということを、妙になまなましく意識した。佐和との結婚をすでに約束された宿命であるかのように思う一方で、藤ノ川にひそむ平家の妄執《もうしゆう》が佐和をとらえて離さないのではないか、などと、ばかげたことを考えていた。  顔を上げると、頭上の佐和がやけに小さく見えた。いまにも泣きそうな眼で、そのくせ笑っている。 「君は、故郷を捨てられるのかい」  浅見は声に出して、言ってみた。むろん、聴こえるわけはない。それなのに佐和は、はっきり、「うん」と頷いてみせた。  船が岸壁を離れ、手の中のテープは、容赦なく奪い去られる。足元に落ちていた巻芯《まきしん》がクルクル回り、じきにテープが尽きた。その瞬間に、佐和はテープを放した。二条の赤いテープが舞い落ちるのを、浅見は確かに、見た。切れるまで持っていることができない佐和の優しさが、この上なくいとおしかった。 『しーふらわー』は汽笛を吹き鳴らすと、航路に向けて大きく右旋回を始めた。 角川文庫『平家伝説殺人事件』昭和60年 6月10日初版発行               平成13年12月30日64版発行